女性説教者はどうなのか?
前回は女性牧師について述べましたが、現代のキリスト教界には、
地域教会の牧師という枠を超え、広域に活動する「説教者」という存在があります。
エペソ4:11の「牧師」は、ポイメンという言葉の訳語で「羊飼い」という意味です。
それゆえ岩波翻訳委員会訳や新共同訳は、「牧者」と訳しています。
このポイメンは、地域教会の指導者である「長老、監督」と同義語です。
一方、説教者は、テレビ、ラジオ、インターネットに出演し、
著書の執筆もすれば、様々な国や地域で講演会も行います。
聖書の教えを説くという点で牧師と共通していますが、異なる点もあります。
女性が説教者として活動する場合、どう考えればよいのでしょうか?
●1テモテ2:11との関連
「教えることに関するパウロ的概念と1テモテ2:12の関係」という論文の中で、
牧師は、監督者として教会のメンバーに霊的な処分を科す場合もあるが、
女性はそのような形での権威の行使には向いていないと述べています。
しかし同時に、女性の活動範囲について次のように述べています。
教会の中で、時折メッセージをすることに支障はありません。・・・
女性は神学校や他の学問の機関でも教えることが可能です。
というのは、そういった機関では、監督や権威の行使が学問の領域に限られており、
霊性や道徳の領域は含まれていないからです。
●例外としての女預言者たち
広域に活動する説教者の場合、
聴衆に対して牧会的な権威を行使することはないとしても、
聖書の教えを説くことを仕事にしている以上、
一定の霊的権威を帯びることは避けられないでしょう。
本人にその意図がなくても、聴衆は権威者として見るようになります。
こういった活動を女性がすることを肯定するには、
女預言者デボラやフルダといった、例外に目を向けるしかありません。
夫である「ラピドテ」の名前は、実は「くすぶる燈心」という意味なのです。“名は体を表す”と言います。恐らくうだつのあがらない男、夫であったのでしょう。しかし、デボラはそんな夫に妻として仕え、家庭をしっかり守ったからこそ、こうした表現が取られたのではないでしょうか。同様なことが、女預言者フルダにも言えます。
彼女の夫シャルムは、レビ人としての誇りを持って装束係の務めに従事していました。けれども、預言者である妻フルダの方が、脚光を浴びたのは明らかです。フルダは、ヨシヤ王に改革を命じ、行わせました。そうであっても、神は「装束係シャルムの妻」と記させました。
2人に共通していることは、「預言者」であったということです。「神のことばを預かる者」、そこに彼女たちは徹したのです。何はさておき、神のことばを聞き従うことを第一としたのです。
前田基子(まえた・もとこ)
イエス・キリスト緑の牧場教会(東京)で救われ、玉野聖約基督教会(岡山)から献身。生駒聖書学院卒。生駒聖書学院副院長。エリムキリスト教会牧師。ABCラジオ放送「希望の声」・テレホンメッセージ「希望の声」(074・373・3740:ゼロナシ・ミナサン・ミナヨレ)牧師。
(引用終わり)
●おわりに
女性が説教者として活動する場合、活動の対象が女性であれば問題ありません。
しかし成人男性も対象にする場合、原則論としてはNGだと思います。
デボラやフルダのように、対象の性別を問わずに活動する女性は、
主が例外として預言者的な働き人として召しているのだと思います。
デボラやフルダが聖書の神によって召されていたように、
「女性説教者」と呼ばれる現代のデボラやフルダがいてもおかしくはありません。
本当に主に召されているのなら、デボラたちのように忠実に使命を果たすべきです。
ただ問題なのは、例外を一般化しようとする現代の風潮です。
あるサイトにはこう書かれています。
(引用終わり)
女性預言者が例外的であるなら、女性説教者も例外的だとすべきです。
「女は男の助け手として、創造主によって造られました」と語り、
創造の秩序を認めた上で、次のように締めくくっています。
かく、「女」は「男」によって「有りて在る存在」「価値ある存在」となり得たことを再確認し、慎んで進んでまいりましょう。
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