主への愛と霊的な実 詩篇1篇
いつもとは違う、随想的な日記です。
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。
「悪者の助言の中を歩む」ことは、「悪者の助言の影響を受けること」であり、
「道」はライフスタイルのことだと解説されています。
主の「おしえ」とは律法です。
私たちにとっては旧新約聖書ですね。
「主のおしえを喜びとし」の部分の直訳は、
その人の「喜びが主の律法にあること」だそうです。
御言葉を愛する、ということでしょう。
「口ずさむ」とは、「静かに暗唱する、黙想する」という意味だそうです。
御言葉を愛し黙想するなら、霊的な活力を得て栄える、ということでしょう。
3節の「実がなる」という表現は、ヨハネ15:5を想起させます。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
実とは何でしょうか?
私の考えでは、まずは主への愛と誠実だと思います。
黙示録2:4
あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
主を慕い求める思いがあれば、
「時が来ると」自然にそれが行いにつながり、実を結ぶのだと思います。
この「実」というのは、人それぞれ違うと思います。
ある人はブログで何かを主張することかもしれません。
ある人は賛美をリードしたり、作曲することかもしれません。
ある人は伝道かもしれませんし、とりなしの祈りかもしれません。
それは主を愛していくことで、自然にひとり一人に導かれる行いだと思います。
だからこそ聖書には、具体的な実の内容が書かれていないのではないでしょうか。
「その人は、何をしても栄える」
このフレーズはヨシュア1:8を想起させます。
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
新約では、やはりヨハネ15章のこの箇所です。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
まずは、主ご自身を慕い求めていきましょう。
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「Lord, have Your way in me!」(あなたの道/やり方を私の内に通してください!)
という魂の叫びがいいと思いませんか?