私の義である神 詩篇4篇
ダビデ王の信仰から学びます。
私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。
人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。セラ
「私の義なる神」ですが、こう訳すと日本語としての響きはいいと思います。
しかしこの訳語だと、神が義なのか、それとも私の義が神なのか、
まったくわかりません。
私の日本語の感覚では、義なる神が私の神だと告白しているとしか受け取れません。
「私の義である神/God of my righteousness」だと説明されています。
自分が忠実に従っていることをご存知のお方、という意味の告白です。
新共同訳は、そのように意訳しています。
呼び求めるわたしに答えてください、わたしの正しさを認めてくださる神よ。
しかし新共同訳や口語訳聖書は、「ダビデ王の栄誉」と解釈しています。
新共同訳「いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか」
口語訳「いつまでわたしの誉をはずかしめるのか」
どちらを取るべきでしょうか?
1節のダビデの告白と、3節以降の文脈を見ると、
ダビデは自分が忠実に歩んでいることを自認しており、
ゆえに自分を聖徒の一人と認識していることがわかります。
それゆえ、主が自分の味方であることを鮮明にしています。
なので「私の栄誉」と訳して、
ダビデ王の栄誉を人々が貶めている、と考えたほうがよいと思います。
ダビデは、神が自分の栄誉を回復してくださることを期待しているのです。
●3節~5節
知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。
恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ
義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。
3節は、原文では「主は忠実な者を、ご自分のために取り分ける」
と書かれているそうです。
口語訳は、そのように訳しています。
しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。
口語訳のように「神を敬う人」と訳して、
主に従っている者というニュアンスを強く出した方が、
後半の「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」と整合性が出ると思います。
ダビデは主に従っていたからこそ、
確信をもって「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」と告白できたからです。
●6節~8節
多くの者は言っています。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。
あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。
平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。
6節の「多くの者」というのは、主に信頼していない人々のことです。
主に期待せずに、「だれか」に期待しているのです。
しかし主に信頼する人は、
主が自分に好意を示し、祝福してくださることを期待します。
NETバイブルの注釈では、
「あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください」という表現は、
「好意を示してください、祝福してください」という意味だと説明されてます。
ダビデは主に信頼し従っていたので、主の好意と祝福を大胆に求めたのです。
7節の「 あなたは私の心に喜びを下さいました」という言葉は、
ダビデの求めに主が応えてくださったことから来る喜びの表明ではないでしょうか。
●まとめ
この詩篇には、
主に忠実に従うことから来る大胆な確信を持って祈るシーンが繰り返されています。
時にはそのような確信を持って、大胆に祈るべきであることを教えられます。
もちろん祈りだけが大胆で、通常の歩みでは不忠実というのはNGです。
ダビデ王のような信仰は、初代教会のクリスチャンたちにも見られました。
主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」
彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。
私たちもダビデ王のように、「私の義である神よ」と告白したいですね。
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