ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「キリストと同じような者」とは? 1ヨハネ4:17

 
 わかるようで、わかりにくい箇所について考えます。
   
ヨハネ4:16~17
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです
 
新共同訳
こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
 
文語訳
かく我らの愛完全をえて、審判の日に(おそれ)からしむ。我等この世にありて主の如くなるに因る。
 
岩波翻訳委員会訳
その愛は私たちがさばきの日に率直さを保つことにおいて、私たちの間で全うされるのである。なぜなら、私たちがこの世に在る在り方は、あの方がそうであるのと同じだからである。
 
口語訳
わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。
 
  
 ご覧とおり、この箇所は訳し方が様々で、
 
 どれが正しいのか日本語だけではよくわかりません。
 
 最初の3つは、訳語が少し違うだけで、言っていることは基本的に同じです。
 
 でも岩波訳と口語訳は、他の3つと違う意味に訳しています。
 

1ヨハネ4:17 
ἐν τούτῳ τετελείωται ἡ ἀγάπη μεθ’ ἡμῶν, ἵνα παρρησίαν ἔχωμεν ἐν τῇ ἡμέρᾳ τῆς κρίσεως, ὅτι καθὼς ἐκεῖνός ἐστιν, καὶ ἡμεῖς ἐσμεν ἐν τῷ κόσμῳ τούτῳ.

 
 訳がバラバラな理由は、上記の原文の冒頭(ブルーの部分)の、
 
「エン タウトー/このことにおいて」というフレーズが、
 
 何を指しているのかについて、翻訳者の解釈が分かれているためです。
 
 
「このこと」とは何のこと?
 
 最初の3つの聖書は、「このこと」が指す内容は、直前の16節だと解釈しています。
 
 岩波訳は17節の真ん中の部分を指していると解釈し、
 
 口語訳は17節の一番最後の部分を指していると解釈しています。
 
 私は、直前の16節を指していると思います。
 
 なので「このこと」というフレーズは、「神との一体化」を指していると思います。
 
 
「愛が完全なものとなる」とは?
 
「愛が・・・完全なものとなりました」ですが、
 
テレイオオーは、「最終目的を達成する」という意味ですので、
 
「神との一体化において、愛の最終目的が私たちの内で達成されました」
 
 ということになります
 
 
 逆に言うと、神が私たちを愛した目的は、神と私たちが一つになるためだった、
 
 ということになりす。
 
 これは、ヨハネ17章のイエスの祈りと一致します。
 
 
父よ、あなたが私のうちにおられ、私もあなたのうちにいるのと同じように、彼らも私たちのうちにありますように岩波翻訳委員会訳ヨハネ17:21 

   
裁きの日にも
 
それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです」という訳は、
 
 原語に忠実で、わかり易く訳されています。
 
 
 しかし「大胆さ、確信」と訳されているパレスィアの使われ方を知ることによって、
 
 さらに明確になることがあります。
 
 この言葉は、誰かに向かって話す状況で使われることが多い言葉です。 

 裁きの日という脈絡でこの言葉が使われていることからして、
 
 天の裁判においてキリストの前で言い開きをする際に、
 
「大胆さ」や「確信」を持って語ることができる
 
 というのがヨハネの云わんとしていることだと思います。
 
 キリストによる裁判については、次のような箇所があります。 
 
 
マタイ25:31~32、40
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。・・・
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
 
 
キリストと同じような者
 
 裁きのときに大胆に語れることと、「キリストと同じような者」というフレーズは、
 
 どうのように関連しているのでしょうか?
 
 これは「キリストと同じような者」というフレーズによって、
 
 ヨハネが何を言い表しているかを少し考える必要があります。
 
 
 ヨハネが手紙の中で強調してきたことの一つは、互いに愛し合え」ということです。
 
 それがキリストの命令であり、神はその手本を示したとも言っています(4:9~10 
 
 なので、「キリストと同じような者」というのは、
 
 この世において他のクリスチャンを愛することを指していると思われます。
 
 上記のマタイの箇所で言えば、「わたしの兄弟たち」に善を行うことに当たります。
 
 
 この世において主にある兄弟姉妹を愛したクリスチャンは、
 
 キリストの命令を全うしたわけですから、
 
 天の裁判でキリストの前に立たされたとき、
 
「私は主の仰せのとおり、兄弟姉妹を愛しました!」と胸を張って報告できる、
 
 というのがヨハネの云わんとしていることです。
 
 
まとめ
 
『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつですマタイ22:37~39
 
 
 第一に重要なのは主を愛することですが、次に大切なのは互いに愛し合うことです。
 
 ヨハネは手紙の中で、この2番目の戒めを強調しています。
 
 今日の箇所によって定義づけするなら、
 
「キリストと同じような者」というのは、互いに愛し合う者です。
 
 ヨハネの概念では、クリスチャン=互いに愛し合う者 です。
 
 天に帰ったときのためにも、地上にいる間に互いに愛し合いましょう!
   
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