ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「聖徒」の意味 1コリント1:2


 
 私たちクリスチャンは、聖書の中で「聖徒」と呼ばれています。
 
 ですから私たちが「聖徒」であることに間違いはありません。
 
 しかし重要なのは、「聖徒」という言葉の意味を正しく理解することです。
 
 もし「聖徒」という言葉の意味を誤解しているなら、
 
 クリスチャンとして間違ったアイデンティティーを持つことになるからです。
 
 この記事では、その点を確認したいと思います。


新聖書辞典
 
「新聖書辞典」(いのちのことば社P737~P738)には、次のように書かれています。
 

新約聖書において「聖徒」と訳されている「ギ:ハギオイ」は、「聖なる者」「きよめ分かたれた者」という意味を持つ。マタ2752は新約以前の聖徒を指しているが、他はすべてキリスト者を指している(使91332412610、ロマ17827、2コリ111312、エペ1138等)。それはクリスチャン、兄弟と同義語である(コロ12)。・・・聖徒とは、イエス・キリストの贖いによって「世」(罪と死の律法)から分離され、聖別された者という意味で、教会すなわち選びの民の中に加えられた者としてこの名が与えられているのである。このように、聖徒はその身分を神の召しによって得たものであって(ロマ17)、通常立派な人を指して言う聖人君子、完全無欠な人とは異なる。聖徒は、イエス・キリストの十字架の血によって罪をきよめられ、その血に免じて罪がないと見なされ、神の御用のために世から選び分けられた「罪赦された罪人たち」である。したがって、罪深い肉的生活を送っていたコリント教会の兄弟たちにすら、パウロは聖徒と呼びかけている(1コリ12)。(強調はブログ主)
 
 
ギリシャ語の意味
 
1コリント1:2 
コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。 
 
 
 上記の箇所で「聖徒」と訳されている語は、ハギオスといいます。
 
 この語は基本的には形容詞で、

「(神によって/神のために)取り分けられた」「聖なる、神聖な」という意味です。

 
 
 ハギオスは文法的な用法によって意味が変わります。
 
 ハギオスの後に続く語が属格や与格の場合、
 
「神のために取り分けられた」とか「神のもの」という意味になります。
 

 上記の箇所の場合、
 
 原文ではハギオスの後に来ている「すべての人々」が与格であるため、
 
 ハギオスの意味は、「神のために取り分けられた者になります。
 
 
 また属格や与格が追随していない場合でも、同様の意味で使われるケースがあります。

 それについて、次のように説明されています。

 
諸民族の中から神によって選別されたイスラエルの民が「聖徒」と呼ばれていたように、新約聖書の中では、神によって選ばれた者であるクリスチャンが、同じ呼称を受け継いでいる。
 

 そしてその事例が多数挙げられており、その一部に次のような箇所があります。

 これらの箇所はみな、「神のために取り分けられた者」という意味です。
 
1ペテロ2:9 聖なる国民」、ローマ1:7「聖徒たち」、同8:27「聖徒」、
同12:13「聖徒」、同16:15「聖徒たち」、1コリント6:1、2「聖徒(たち)」、他
 
 

まとめ
 
「聖徒」という言葉の定義は、神のために「取り分けられた者たち」です。

 罪の性質がなくなった者というようなニュアンスのものではありません。
 
 この定義づけは、コリント教会の問題アリのクリスチャンたちにも当てはまります。
 
 また、聖書には次のような箇所もありますが、それとも整合します。
 
 
ガラテヤ6:3~4 
だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
 
ヨハネ1:8 
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
 
 
 私たちは聖書の中で「聖徒」と呼ばれています。
 
 ですからクリスチャンは聖徒です。
 
 しかしそれは聖人のようにきよい人たち、という意味ではありません。
 
 罪の性質は残っており、それから完全に解放されるのは死んで天国に行ったときか、
 
 携挙の際に肉体が栄光の体に変えられるときです。
 
 地上で歩んでいる間、私たちは罪の誘惑と闘い続けなればなりません。
 
 そのような状態に置かれている私たちは、
 
「聖徒」と自称するにしても、正しい意味でそうすべきです。
 
 
 イエスさまはこう教えました。
 
ルカ18:13~14 
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
 
 
 間違ったアイデンティティーを持つなら、
 
 パリサイ人のように自分の義を誇ることになりかねません。
 
 私たちはあくまで十字架から来るイエスさまの義を誇りとしていきましょう!
 
 
↓最後までお付き合いくださり、ありがとうございました↓