パウロの嘆きの解釈 ローマ7:14~25 後半
後半です。
●前後の脈絡1
7章後半で、パウロが新生後の自分を嘆いていたとすると、
新生した人が罪との闘いの中に置かれる恐れがあったことを示唆する箇所が、
7章の前か後ろにあるずです。
以下の箇所は、それに当たります。
ローマ6:11~14
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
上記の箇所を見ると、「~してはいけません」と書かかれています。
これは、新生した信者が罪を犯してしまう恐れがあることを示唆しています。
私たちは、未信者であった時のように、罪に支配されることはもうありません。
御霊の助けにより、罪の力に打ち勝つことができるようになりました。
しかし同時に、罪を犯す恐れがあることは、上記に書かれているとおりです。
●前後の脈絡2
ローマ8:9~11
9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです(未来形)。
10節に注目してください。
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪(単数形)のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています
この節は、新生した信者について述べています。
しかしパウロは、「からだは罪のゆえに死んでいる」と述べています。
この節の「罪」は単数形で書かれているため、
個々の罪のことではなく、罪の性質を意味していることがわかります。
罪の性質のゆえに、クリスチャンの体は死んでいるというのです。
これはどういう意味でしょうか?
私たちの体は、生物学的には生きています。
ということは、「死んでいる」というのは、霊的に死んでいるということです。
私たちの肉体は、罪の性質が残っているために霊的に死んでいるのです。
御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです(未来形)。
と8:11に書かれているとおり、クリスチャンの肉体が霊的に生きるのは、
携挙の際に、御霊の体に変えられるときです(ゆえに未来形)。
さて、肉体には脳も含まれます。
脳も罪の性質の影響を受けているため、
私たちは、救われた後でも悪いことを考えたり、不信仰になったりするわけです。
こういった原則は、パウロも同じです。
パウロが私たちよりもきよめられていたとしても、肉体(脳)を持っていた以上、
完全に罪の性質から解放されていたわけではありません。
それゆえパウロは、こう嘆きました。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれる(未来形)のでしょうか。7:24
罪に対して、私たちよりも敏感だったはずです。
ということは、そのぶん自分の弱さを深く嘆くのは当然のことです。
そう考えるなら、7章後半を新生後のパウロに関する描写と理解するほうが、
理に叶っています。
●まとめ
長くなりましたが、7章後半を新生後と解釈しても文脈的に問題がなく、
むしろ言っていることに筋が通ることがお分かりいただけたのではないでしょうか。
そういうわけで、私たちは慰めと励ましを受けることができます。
そしてこの弱い私たちも、パウロと同じようにきよい歩みができる!
という励ましです。
↓最後までお付き合いくださり、ありがとうございました↓