ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

有効召命 その2


 
 前回から、有効召命について記事を書いています。
 
 有効召命はカルビン主義の五教理にも含まれますが、
 
 正しい概念なので多目的贖罪論でも採用されています。
 
 
 有効召命とは、神に選ばれた人々を救うための神による招きです。
 
 有効召命は、その人が救いに至るまで説得しきる聖霊の働きで、
 
 失敗に終わることはありません。
 
 この記事でも、その点をさらに説明していきます。
 
 
ルカ14:23 
主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
 
 
 上記のような箇所を読んでも、

 私たちは何も気づかず読み過ごしてしまうと思います。
 
 しかしこの譬え話には、興味深いことが書かれています。
 
 最初に招かれた人たち(ユダヤ人)は、みな神の国に入ることを拒否します。
 
 すると主人は、「無理にでも人々(異邦人)を連れて来なさい」としもべに命じます。
 
 ポイントは、「無理にでも」というところにあります。

 
 原文には「強いる」という意味の動詞が使われており、
 
 本人たちの意志ではなく、主人の意志によって救いに入れられるのです。
 
 これは神の主権による救いを描写していると受け取れます。
 
 なので神学者たちは、この箇所を有効召命を描写する箇所として理解しています。


ローマ11:29 
神の賜物と召命とは変わることがありません。
 
 
 この一節も、普通に読んだら、有効召命と関連づけることは難しいと思います。
 
 しかしこう考えてみてください。
 
 もし救われるように召されていた人が、救われずに滅びてしまうなら、
 
 召命が変わることになります。
 
 しかしこの箇所は、召命は変わらないと言っています。
 
 つまり、救われるように召されている人は、必ず救われるということです。
 
 
1コリント1:24 
しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
 
 
 ポイントは、「召された者にとっては」という表現にあります。
 
 召されていない人には、キリストは神の力になりません。
 
 なので多くの人は、福音を聞いても信じません。
 
 しかし救いに召されている人にとっては、キリストは神の力ですから、

 必ず救われるのです。

 私のように理屈っぽい人間でも、

 召された者にとってキリストは「神の知恵」ですから、

 疑問や反発を経た上で、最終的には説得されて救いに至るわけです。

 
 ヒューマニズムで考えたなら、

 これはとんでもない差別だと言われてしまうでしょう。

 しかし神の主権には、このような一面があるものです(ローマ9:20~21)。
 
 
1テサロニケ1:4~5 
神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。
 
 
 この箇所は実にパワフルです。
 
 パウロは、テサロニケのクリスチャンたちが、
 
「神に選ばれた者」であったことを知っていたと言っています。
 
 その理由は、伝道の中に「力と聖霊と強い確信」を感じたからでした。
 
 つまり、彼らが選ばれた者だったので、神の働き方が普通と違い顕著だったのです。
 
 それゆえパウロは、
 
 テサロニケの人々が選ばれた者であり、必ず救われることを確信できました。
 
 
2テモテ1:9~10
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです
 
 
 もし人間の自由意志が本当に自由で、何ものによっても影響を受けないのなら、
 
 永遠の昔に定められた神の「計画」にも影響されないはずです。
 
 しかしパウロは、テモテや自分が救われたのは神の計画によることであり、
 
 二人に対して「永遠の昔に与えられた」恵みのゆえだと言っています。
 
 言い換えるなら、救われたことは自分たちの選択によるものではなく、
 
「聖なる招き」によって説得された結果だということです。
 
 
 
2テモテ2:10 
だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。
 
 
 上記の箇所には、

 パウロが苦労に耐えながら伝道をし続けた理由が述べられています。
 
 パウロによれば、彼があらゆる困難に耐え忍んだ理由は、
 
「選ばれた人々のため」でした。
 
 選ばれた人々に福音を伝えるなら、
 
 その人たちが救われることをパウロは知っていました。
 
 福音をとおして聖霊が選ばれた人たちに呼び掛け、
 
 救われるとわかっていたので、忍耐強く伝道することができたのです。
 
 

感想
 
「日本の伝道は難しい」とよく言われます。
 
 それを否定するつもりはありませんが、
 
 パウロと同じ見方をするなら、

 日本宣教の困難さが多少は和らぐのではないでしょうか。
 
 日本人の中にも神に選ばれた人々はいるわけで、

 その人たちに福音を語れば、必ず救われるからです。