ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

普遍的贖罪の必要性 その1「福音の内容」


 
 普遍的贖罪とは、一部の人の罪だけでなく、万人の罪が贖われたことを言います。
 
 選ばれた人々への特別な神の愛は、救いとその保証という形で表わされています。
 
 しかし神は、救いに選ばれていない人の罪をも贖いました(1ヨハネ2:2)。
 

 多目的贖罪論では、普遍的贖罪がなされたことの根拠の一つとして、
 
 福音を真実に提示するために、それが必要であったからだと考えています。
 
 この記事では、その理由を説明します。
 
 
1コリント15:1~5 
1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
 
 
 この箇所には、キリストの贖罪の範囲が示されています。
 
 贖罪の範囲とは、キリストが一部の人のためだけに死んだのか、
 
 それとも万人のために死んだのかを表す範疇のことです。

 
 この箇所の3節以降で、パウロがコリントで語った福音の内容が説明されています。
 
 その第一番目に、「キリストは…私たちの罪のために死なれた」とあります。
 
 この「私たち」という人称代名詞が誰を指しているかによって、

 贖いの範囲が決まります。
 
「私たち」が万人を意味しているなら、パウロは普遍的贖罪を信じていたことになり、
 
 救いに選ばれた人々を指していたなら、限定的贖罪を信じていたことになります。
 

 一見すると、この「私たち」というのは、
 
 パウロ自身とコリント教会の信者を指しているように思えます。

 
 しかしパウロがコリントの町で福音を宣べ伝えたとき、
 
 聴衆の中には、救いに選ばれていない人々も含まれていたことは確かです。
 
 少なくとも、パウロは両者を区別できませんでした。
 
 ですから選ばれた人々にも、そうでない人々にも、
 
 パウロは、「キリストは私たちの罪のために死なれた」と語ったことになります。

 こう考えると、「私たち」という表現はパウロ自身とその他全員を指すことになり、
 
 パウロが普遍的贖罪を念頭に置いて語っていたことがわかります。

 神は全人類の罪を贖うために、独り子を犠牲にしました。

 決して神を信じない人々をも愛し、真実を尽くしたのです。

 こうして、福音を普遍的かつ真実に提示する土台が築かれました。


 カルビン主義は限定贖罪を主張しているため、

 罪が贖われていない人に福音を語ったところで、絵に描いた餅に過ぎませんでした。

 しかし多目的贖罪論は、

 真実を尽くした普遍的贖罪により、真実な福音提示の土台が築かれたと考えるので、

 選ばれていない人にも実質のある福音提示をすることができます。
 
 
●動機
 
2コリント5:14~20(新共同訳)
14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。
15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
 
 
 この箇所には、パウロの伝道の動機が語られています。
 
 14節に「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」とあるとおり、
 
 パウロの伝道の動機は、キリストの愛でした。
 
 そしてその愛の表れは、

すべての人のために死んでくださった」ことにあると言ってます。
 

 この「すべての人」という表現は、
 
 15節以降を解釈すると、全人類を指していることがわかります。
 
 まず15節に「生きている人が…」とありますが、
 
 この人たちがキリストのために生きるようになるのが目的だったとありますから、
 
「生きている人」というのは、クリスチャンのことを指していることがわかります。
 
 霊的に生きている、という意味であると思われます。
 
 それゆえ15節は、選ばれた人々と神との和解を述べていることになります。
 
 この和解は、18節で「わたしたちを御自分と和解させた」と言い換えられています。
 
 
 次に19節の「神は…世(世界)を御自分と和解させ」という表現は、
 
 選ばれていない人々を含む万人との和解を指しています。
 
 この和解の意味は、人々の罪の責任を問うことなく」という表現の中に見られます

 人間の罪に対する裁きを即座に執行せず、再臨を遅らせることにより、
 
 神が忍耐を示しているという意味だと思われます(2ペテロ3:9)。


人々の罪の責任を問うことなく」という部分を原文で見ると、

 現在形の分詞が使われており、神が継続的に、

 罪に対して寛容な態度をとっていることが示唆されています。
 
 ペテロは、神の忍耐を「救いだと考えなさい」と言っていますが(2ペテロ3:15)、

人々の罪の責任を問うことなく」という表現は、

 それと同じことを述べているものと思われます。

 
 このように神は、選ばれた人にもそうでない人にも和解を勧めています。

 福音の普遍的な提示をとおして、神は全人類に和解を勧めているのです。
 
 そういうわけで、2コリ5章でも、普遍的な贖罪が語られていることになります。

 そしてそれは、万人に対するキリストの自己犠牲的な愛が土台となっており、

 真実な福音提示が意図されていたことがわかります。