ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

教会における女性の役割 1テモテ2:12


 
 
 お二人は相補主義の神学者で、教会における女性という本を共著しています。インタビューの中で、両名は1テモテ2915の意味について答えています。
 
 ブログ主ダビデは、お二人の見解に基本的には賛成です。お二人は、1テモテ212の「教える」という表現は、「長老としての権威をもって教える」ことを意味すると述べており、当ブログの記事『教える』の意味 1テモテ212と一致しています。
 
 しかし間違っていると思える部分もあるので、それについて検証します。  

If the “teaching” and “authority” referenced in 1 Timothy 2:12 most naturally relate to the authoritative teaching of the elders, does that mean women could be permitted to teach men in other, non-authoritative contexts within the life of the local church (e.g., a Sunday school class, a small group, etc.), so long as such teaching was not confused with the authoritative instruction of the elders? 

I, Tom, don’t think so since I think the function, and not just the office, is prohibited. I, Andreas, concur with Tom on this point. 
That said, it is of course true that “teaching” and “exercising authority over men” are functions exercised by elders in the church (cf., e.g., 1 Timothy 5:17).

インタビュアー:1テモテ2:12の「教えること」と「権威」という表現が、長老による権威ある教えを意味するのなら、地域教会における非権威的な状況(たとえば日曜学校や小集会など)であれば、長老による権威ある教えに混乱をきたさない限り、女性が男性に教えることは許されるのでしょうか?

私(シュライナー)は、許されないと思います。というのは、禁じられているのは役目/functionであって、職位/officeだけではないからです。私(コスティンバーガー)も、その点についてはシュライナー氏と同感です。
 
「教えること」や「男に対して権威を行使すること」は、教会における長老たちの役目だからです(一例として1テモテ517参照)。
                                (引用終わり)  

検証
 
 上記の回答が、聖書の教えと完全に一致しているか否かを検証します。
 
 お二人は回答の中で、日曜学校や小集会などの非権威的な集会においても、
 
 女性は男性に聖書を教えることができないと答えています。
 
 その理由は、聖書を教えることは女性の役目ではないからだとしています。
 
 
使徒18:26 
彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。
 
 
 この箇所では、プリスキラが夫のアクラと共にアポロを教えています。
 
 原文を見ると、「招き入れて」と「説明した」が複数形で書かれており、
 
 プリスキラが教えに加わっていたことがわかります。
 
 加えて、プリスキラの名前が文節の冒頭にきており、
 
 夫のアクラよりも強調されています。
 
 つまり活動のウエイトが、プリスキラのほうにあったということです。
 
 二人は自宅と思われる場所にアポロを招き入れることで、
 
 権威的にならない状況を作った可能性があります。
 
 少なくともこの箇所は、女性が男性に神の真理を教えてもよいことを示しています。
 
 
②コロサイ3:16 
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
 
 
 この箇所には「互いに教え」とあり、性別には言及していません。
 
 もし女性が男性に教えられないのであれば、
 
 パウロは「互いに教え」とは書かずに、「女は女に教え…」と書いたはずです。 
 
 18節に行くと、パウロは「妻たちよ」と呼びかけ、

 妻たちに対する勧めにシフトします。
 
 しかしそれまでは、男女を問わずに語り掛けています。
 
 言い換えると、「互いに」の中には男女両方が想定されており、
 
 女性が男性に教えることも、パウロの想定内であることがわかります。
 
 ですから聖書に忠実なクリスチャンは、男女を問わず、互いに教えるべきです。
 
 
1コリント14:26 
兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
 
 
 この箇所でパウロは、「それぞれの人が…教えたり」と述べており、
 
 性別には言及していません。
 
 例えばローマ1:26~27の場合、
 
「男も…男どうしで」とか「男が男と…」などと、パウロは書いています。
 
 性別を明示する必要がある場合、パウロはそうしていることがわかります。
 
 ですから1コリ14:26の場合も、もし女性は女性にしか教えられないのであれば、
 
「女は女どうしで教え合いなさい」とか「女は女にだけ教えなさい」と書いたはずです。
 
 しかしパウロは、そうしませんでした。
 
 このことは、定期集会という状況において、
 
 性別を問わずそれぞれの人が、神の真理を教えるべきであるというのが、
 
 パウロの意図であったことを示しています。
 

④ローマ12:6~8 
6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
 
 
 7節には教えの賜物に関する言及がありますが、性別の言及はありません。
 
 上記のどの賜物についても、性別に関する制限はまったく設けられていません。
 
 もし女性が教えること自体を禁じられていたのであれば、
 
 パウロはそれを明示したはずです。
 
 この箇所からも、女性が教えのミニストリーから除外されていないことがわかります。


まとめ
 
 パウロが1テモテ2:12で禁じているのは、
 
 女性が「長老のような権威をもって教えること」です。
 
 権威的な状況でなければ、女性が男性に教えてもよいし、
 
 むしろ性別を問わず、互いに教え合うことを聖書は勧めています。
 
 シュライナー、コスティンバーガー両氏は、
 
 1テモテ2:12だけを土台にして女性が男性を教えることを否定していますが、
 
 否定しすぎている部分は、間違いであると言わざるを得ません。