聖霊と火とのバプテスマ マタイ3章
譬え話の本来の意味が見えてきます。
●まむしのすえたち
マタイ3:7
「まむしのすえたち」とはどういう意味なのでしょうか?
ですから「まむし」と言われるだけで十分に悪い含みがありましたが、「まむしのすえたち」と呼ばれることには、自分の親を殺すという一層醜悪な含みがあるのだそうです。
マタイ3:9
「われわれの先祖はアブラハムだ」というフレーズには、
どのような意味があるのでしょうか?
と往々にして考えていたそうです。
バプテスマのヨハネは、その考えが間違っていることを指摘しました。
マタイ3:10~12
10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。
11節後半を原文どおりに訳すと、
「彼はあなたがたを聖霊と火の中に浸します」となります。
バプティゾーという語に「洗礼を授ける」という訳語を付けてしまったことは、
昔の聖書翻訳者の功罪だと言っています。
バプティゾーは、単に「浸す」という意味の言葉だからです。
この箇所も、バプティゾーに囚われずに解釈すると、真の意味が見えてきます。
聖霊の「霊」の部分(プニューマ)には、風という意味があります。
12節の譬えは、農夫が箕を使い、風の中で麦ともみ殻を選り分ける様を描いています。
聖霊に従う者であるクリスチャンは倉(天国)に入り、
吹き飛ばされたもみ殻(不信者)は消えない火(ゲヘナ)に入れられます。
10節以降は神の裁きを警告する文脈ですから、上記の解釈は文脈と一致しますし、
終わり