ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

霊的荒野 マタイ4章


マタイ4:1 
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
 
 
 新改訳では「エス上って行かれた」と訳されていますが、

 原文を直訳するとこうなります。
 

そのときイエスは、御霊の下で荒野に導かれた。悪魔の下で試みられるためであった。
 
 
 まず冒頭の「そのとき」という一語に意味があります。
 
 3章の最後でイエスは、悔い改めの洗礼を受け、ご自分を罪人の立場に置きました。
 
 これは、贖罪の使命を果たす備えに入ったことを意味します。
 
 
 次に「~によって」と訳されている言葉はhupoフホーといいます。

 この言葉の原義は「~の権威の下で」です。
 
 下図の一番下にある横線をご覧いただくとわかりますが、

 フポーというのは、何かの下に置かれた状態を示す言葉です。

 イエスは、御霊と悪魔の(権威の)下に置かれた状態にありました。

 

イメージ 1

 第三に「荒野に導かれる、試みられる」の部分が受け身形で書かれていることから、

 行為の主体がイエスにはなかったことがわかります。
 
 エスの意志で荒野に行ったわけではなく、
 
 他者の意志によって荒野に連れて行かれたのです。

 言うまでもなく、このことを主導したのは父なる神です。

 父なる神が、御霊の下でイエスを荒野に導きました。

 直接的に誘惑したのは悪魔ですが、そうさせたのは父なる神でした。
 
 
 私たちの人生においても、神は同じようなことをなさいます。
 
 ギリシャ語辞典には、次のような説明があります。
 
 
聖書では、「荒野/ギ:エレモス」というのは、皮肉にも神がご臨在を豊かに現す場所であるとともに、神を求める者たちに備えを施してくださる場所でもある。無限の神は、人生における極限状態の中でご自身を強く現されるのだ。
                               (強調はダビデ
 
 
 神が私たちを極限状態に置く理由は、備えをするためです。
 
 その後の歩みやミニストリーのために、私たちを備えるためにそうするのです。
 
 私たちは人間的には苦しみますが、

 ご臨在が強く現され、主との交わりは祝福されます。
 
 確かに霊的荒野は人間的には心地よくありませんが、

 その後の歩みには期待できます。
 
 イエスの公生涯(公の働き)が始まったのは、荒野の後だったからです。