霊的荒野 マタイ4章
マタイ4:1
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
原文を直訳するとこうなります。
そのときイエスは、御霊の下で荒野に導かれた。悪魔の下で試みられるためであった。
まず冒頭の「そのとき」という一語に意味があります。
これは、贖罪の使命を果たす備えに入ったことを意味します。
この言葉の原義は「~の権威の下で」です。
下図の一番下にある横線をご覧いただくとわかりますが、
フポーというのは、何かの下に置かれた状態を示す言葉です。
イエスは、御霊と悪魔の(権威の)下に置かれた状態にありました。
第三に「荒野に導かれる、試みられる」の部分が受け身形で書かれていることから、
行為の主体がイエスにはなかったことがわかります。
イエスの意志で荒野に行ったわけではなく、
他者の意志によって荒野に連れて行かれたのです。
言うまでもなく、このことを主導したのは父なる神です。
父なる神が、御霊の下でイエスを荒野に導きました。
直接的に誘惑したのは悪魔ですが、そうさせたのは父なる神でした。
私たちの人生においても、神は同じようなことをなさいます。
聖書では、「荒野/ギ:エレモス」というのは、皮肉にも神がご臨在を豊かに現す場所であるとともに、神を求める者たちに備えを施してくださる場所でもある。無限の神は、人生における極限状態の中でご自身を強く現されるのだ。
(強調はダビデ)
神が私たちを極限状態に置く理由は、備えをするためです。
その後の歩みやミニストリーのために、私たちを備えるためにそうするのです。
私たちは人間的には苦しみますが、
ご臨在が強く現され、主との交わりは祝福されます。
確かに霊的荒野は人間的には心地よくありませんが、
その後の歩みには期待できます。
イエスの公生涯(公の働き)が始まったのは、荒野の後だったからです。