同性愛と聖書
クリスチャンの中には、聖書が同性愛を容認していると考えている人がいます。
中には「ぜんぜんオッケーです」などと、
無責任極まりないことを教えている人すらいます。
本当にそうでしょうか?
この記事では、その点を検証します。
●イエスの教えと同性愛
マタイ5:18
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。
イエスさまは、律法は天地が存在する限り有効だと言っています。
律法が現在でも有効だからこそ、
私たちの義がパリサイ人に優っていない限り救われないと言っているのです。
もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。マタイ5:20
律法が有効であるということは、
律法にある613項すべての掟を守らない限り救われないということです。
律法学者やパリサイ人らは、それを守ろうと努力していました。
しかしイエスさまは、救われるには、彼らに優る律法の義が必要だと言っています。
言い換えると、律法の義で救われる人など一人もいないということです。
だからこそ、
レビ記20:13
男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。
レビ記20:13は、同性愛は「忌みきらうべきこと」だと述べており、
明確に同性愛を禁じています。
イエスさまの言葉によれば、この掟は今日もすたれていませんから、
聖書が同性愛を容認しているという考えは、
まったくの間違いだということになります。
●パウロ書簡と律法
律法が今日も有効であることは、パウロ書簡からもわかります。
ガラテヤ3:10(新共同訳)
律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
ガラテヤ3:10でパウロは、
「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています」と言い、
「呪われています」の部分には、
エイミーの現在形・3人称複数のエイスィンが使われています。
これが意味するところは、
律法の実行によって義を獲得しようとする者は、現在の時点で呪われている
ということです。
つまり律法による呪いの効力は、新約時代の今日も継続しているということです。
もしそれが旧約時代に限定されていたのであれば、
パウロはアオリスト過去形か未完了過去形を使い、
「呪われていました」と書いたはずです。
しかし現在形を使い、
新しい契約の下でも律法の断罪機能が有効であることを示しました。
もし律法の機能が無効なら、律法によって呪われることはありません。
しかし有効だからこそ、
私たちは、その呪いから贖ってもらう必要があったのです(ガラテヤ3:13)。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。ガラテヤ3:13
このように、律法が無効であるとする考えは、
キリストによる贖いの必要性をも否定することになります。
律法の断罪機能が有効だとする理解は、他のパウロ書簡にも表れています。
一例として1テモテ1章があります。
1テモテ1:9~10
すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです(ギ:「ケイマイ/~を置く」の現在形・3人称単数)。
「律法は…律法を無視する不従順な者…のためにあるのです」とあります。
原文では、「ためにあるのです」の部分は9節に書かれています。
そしてこの部分は、「~を置く」という意味のケイマイの現在形で書かれおり、
律法が(今現在も)置かれていることの意義は、
律法を無視する者の(断罪)のためであるとパウロは述べています。
●まとめ
ローマ1:26~27
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
聖書は旧約新約一貫して、明確に同性愛を断罪しています。
同性愛を肯定しているすべてのクリスチャンは、その考えを改めましょう。