イエスは誰の信仰を見たのか? マタイ9:2
マタイ9:2
「イエスは彼らの信仰を見て」とあります。
この信仰が、癒しを受けられたポイントになっています。
では、「彼らの信仰」というのは、具体的には誰の信仰でしょうか?
運んできた人たちの信仰だけでしょうか。
それとも、中風の人の信仰も含まれているのでしょうか。
私は両方だと思います。
理由1
原文では、「人々」に相当する名詞(主語)が省かれています。
「運ぶ」に相当する動詞の語形によって、
主語が複数の第三者であることがわかるため「人々が」と訳していますが、
原文には「人々」に相当する名詞は書かれていません。
言い換えると、
筆記者のマタイは、運んできた人たちのことを特に強調していないということです。
理由2
ルカ5:18~20
するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
ルカの福音書にある並行記事では、
18節に「男たち/アンドレス」という主語が書かれています。
しかし19節以降では、やはり動詞の主語がみな省かれています(訳文でも同じ)。
つまりルカも、運んできた人たちを特に強調していないということです。
理由3
「彼らの信仰」の中に中風の人の信仰を含めるべきもう最大の理由は、
「子よ」という呼び掛けがなされていることにあります。
これにより、イエスさまが中風の人に特別な親しみを持っていたことがわかります。
ですからこの人の信仰を無視して、
運んできた人たちの信仰だけを見たと考えるのは理に叶いません。
一方、ルカのほうの「友よ」の部分には、
「アンスロポー/人」という言葉が使われています。
アンスロポーというギリシャ語そのものには、「友」という意味はないようですが、
このような呼び掛けをとおして、親しみを表現する慣習があったそうです。
●まとめ
癒しのポイントになった「彼らの信仰」には、病人本人の信仰も含まれます。
主に癒しを求める際は、とりなす人もとりなされる人も、
双方が熱心に癒やしを求め、信仰を表明しましょう。