神の全能性と十字架 マタイ19:16~17
前回の記事の直前の箇所から書きます。
マタイ19:16~17
「(本質的に)良い」という意味の言葉で、
「神から発し、神が原動力となっているもの」というのが、辞典による定義です。
パウロは、自分の内には「アガソス」が宿っていないと嘆きました。
ローマ7:18
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
逆に、冒頭の箇所に出てくる金持ちの青年は、自分の内にアガソスな一面があり、
アガソスな行いをすることによって救いが得られると誤解していたようです。
「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」
という青年の質問が、それを物語っています。
「あなたが完全になりたいなら…持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」
ですから21節の言葉は、
「完全なキリスト者になりたいなら…」と置き換えることができます。
しかしイエスさまは、知っていました。
人にはそんなことはできず、ゆえに神の国に入ることもできないことを。
それで、次のように結論づけます。
「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(26節)
●あとがき
人にはできないことを具現化したのが、十字架での死と復活です。
また、それを信仰によって信じることによる救いです。
言い換えると、
十字架と復活、そしてそれを信じることによる救いという手段は、
神の全能性の現れだということです。
人の目には敗北や弱さのように見える手段が、神から見ると全能性の現れなのです。
十字架から降りてこいと罵られていたそのとき、
実にイエスさまは、神の全能性を体現していたのです。
以下の言葉は、その逆説的な側面を示しているように思います。
1コリント12:9
わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。