ダビデの日記

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千年一日説/The One Thousand Year Day その1


 
Post-Trib」(Dennis Farrell著)という書籍の「The One Thousand Year Day」のセクションから抄訳します。
 
 この本は、タイトルが示すとおり、患難後携挙説の立場から書かれています。
 
 
☆ ☆
 

The One Thousand Year Day/千年日


 1ヨハネ417は、「裁きの日」について述べている。
 
 
こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。                         ヨハネ4:17 ・新共同訳
 
 
 裁きの期間は、どれほどの長さだろうか。1日なのか、7年間なのか、あるいはもっと長期に及ぶのだろうか。
 
 裁きの日には、患難期や千年王国が含まれるのだろうか。主の日と関係があるのだろうか。
 
 スコフィールドによると、主の日は、患難期前の携挙直後に始まる「一定の期間」で、その期間に神は裁きと祝福をもたらし、1007年後の「大いなる白い御座」をもって終わるとしている。
 
 しかし1909年におけるスコフィールドの最初の言説では、「エホバの日~その日とか大いなる日とも呼ばれる~は、主の栄光の再臨をもって始まる一定の期間」とされている。 
 
 これは患難期の終わりに起こるパルスィーア(再臨)のことであり、主の日は1000年間としている。
 
 アウグスティヌスは実に曖昧な言い方をしており、「この最後の裁きが幾日を占めるかは不明」だとしている。
 
 しかし彼が、「最後の裁き」は1日よりも長くつづくものと見ていることは明白である。
 
 ウォルヴード/Walvoordは、主の日とは「神が地上で裁きと主権統治を行う長い期間」だとしている。
 
 これには患難期が含まれるかもしれないが、「主権統治」というのは恐らく千年王国のことである。
 
 ラーキン/Larkinは、主の日は千年王国の始まりだとしており、それが「最後の日」(the last day)であり、パルスィーア(再臨)のことであるのは確かである。
 
 裁きの日の長さについて、見解が分かれているのは明らかである。ルカ10141131は裁きについて述べているものの、具体的ではない。
 
 
しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。 
                           ルカ10:14 ・新共同訳
 
南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。                       ルカ11:31 ・新共同訳   
 
 
 ルカの2箇所で、主イエスが特定の日について述べているのか否かは不明だが、裁きのための長い期間である可能性は考えられる。
 
 しかしマタイ1122ヨハネ1248、2ペテロ29は、単一の日に起こる裁きについて述べているようである。
 
 
しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。                             マタイ11:22 
 
わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。             ヨハネ12:48 
 
主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。            2ペテロ2:9
 
 
 ローマ2:16も、具体的な裁きの日を描写している。
 
 
そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。          ローマ2:16 
 
 
 最後に2ペテロ3:7は、単一の「裁きの日」を示唆している。
 
 
しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。
                                  2ペテロ3:7 
 
 
 これらの聖句は、終末における単一の裁きの日について述べているのだろうか、それとも一定の期間についてだ述べているのろうか。
 
 単一の日であるとしても、義なる者と悪い者に対する2つの裁きが行われることはわかっている。
 
 ヨハネ5:28~29については先述したが、その箇所は2つの集団の復活について述べている。
 
 しかし黙示録20章では、2つの復活の間に1000年間の隔たりがある。2つの集団の復活の間には1000年間の隔たりがあるにもかかわらず、単一の日に裁かれるということがあり得るのだろうか。
 
 この疑問に対する唯一の解決は、「日」という表現が長期間を意味しており、その中に第一の復活と第二の復活、聖徒の裁きと悪い者の裁きの双方が組み込まれている場合である。
 
 主の日は7年間だと考えることにやぶさかでない人は、スコフィールドが述べていたように、「日」という表現が長期間を意味するとしても容易に受け入れることができるはずである。
 
 レオン・ウッドは「神の時間の概念は、人間のそれとはかなり異なっている(2ペテロ3:8)」と述べている。
 
 詩篇90:4は、1000年は「きのうのよう」だと言っている。
 
 
まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。                               詩篇90:4  
 
 
 同様に2ペテロ3:8も、千年を一日と比較している。
 
 
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 2ペテロ3:8 
 
 
 この2つの聖句を字義通りに受け取るなら、1000年は1日であるという仮定が正しいことの最良の証拠となる。
 
 ウォルヴードは、詩篇90:4の釈義の中でこう述べている。「詩篇90:4にあるように、聖書が千年と記している場合、それは字義通りの千年を意味している。」
 
 また彼はこうも述べている。
 
「2ペテロ3:8に主の一日は千年だと書かれている場合、その意味は明らかで、神にとっての一日は、人間にとっては文字通りの千年なのだ。つまり神は、その日に重大な事柄を計画しているのである。
 
 その聖句が千年は一日だと言っている場合、それは人間にとっては文字通りの千年であるが、神にとっては一日なのである。これらの箇所において、千年の字義性を疑う余地はまったくない。」 
 
 ブラックストーンは、これを「大いなる千年の日/great Millennial day」「時代という日/the day of an age」「長い期間/a long period」と呼んでいる。
 
つづく