ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

毒麦の譬えと千年王国

 
 毒麦の譬えを理解するには、千年王国の概念が必要だという内容です。
 
 
マタイ13:24~30
エスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
 
 
 この譬えの最後のところに、「まず、毒麦を集め」と書かれています(30節)。
 
 主の解き明かしによると、「毒麦とは悪い者の子どもたちのことです」(38節)。
 
 そして「収穫とはこの世の終わりのことです」(39節、40節)

 ちなみに、「世」と訳されているアイオンは「時代」という意味で、
 
「終わり」と訳されているスンテレレイアは「完了」という意味です。
 
 ですから「この世の終わり」の直訳は、「この時代の完了」ということになります。


 集められる順番の話に戻りますが、マタイの他の箇所には、
 
 集められるのは悪い者の子どもたちではなく、選ばれた人々だと書かれています。
 
 例えば次の箇所です。
 
 
マタイ24:31 
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます
 
 
 この箇所は、同243で弟子たちが「世の終わり」について尋ねた質問への答えです。
 
 
マタイ24:3 
「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
 
 
 弟子たちが「世の終わり」について尋ね、
 
 その答えの中でイエスは、「選びの民を集める」と言っています。
 
 一見すると、毒麦の譬えと集める順番が逆に説明されているか、
 
 世の終わりが2種類あるかのどちらかのように思えます。
 
 これは、どのように考えればいいのでしょうか?
 
 
千年王国の描写
 
 この疑問を解決するために、毒麦の譬えの後半と黙示録20章を比較します。
 
 
マタイ13:40~42 
ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
 
黙示録20:11~15
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた
 
 
 マタイ1342に、毒麦が「火の燃える炉」に投げ込まれることが書かれています。
 
 一方、黙示録では、201415で、非キリスト教徒が「火の池」に投げ込まれます。
 
 ですから、毒麦を集める部分は、黙示録201113ということになります。 
 
 この時には、「毒麦」だった人たちは死んでいます。
 
 黙20:12を見ると、死者が神の前に引き出されています。
 
 この部分が、マタイ1330の「まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい」や、
 
 同1341の「御国から取り集めて」に相当する部分です。

 要するに、毒麦の譬えにおける「世の終わり」は、

 他の箇所の「世の終わり」の1000年後だということです。
 
 
●結論
 
 このように、毒麦の譬えは、黙示録20章を字義通りに解釈し、
 
 千年王国の存在を認めない限り、正しく解釈することはできません。
 
 無千年王国説では、毒麦の譬えは解釈できないということです。
 
 これは、マタイの福音書の段階では啓示されていなかった千年王国が、
 
 黙示録においては漸進的に啓示されたと理解するか、
 
 千年一日説を適用して、「世の終わり」という特定の時期が、
 
 一日でもあり千年でもあると理解するかのどちらかになります。

 おわり