ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

オープン神論とグレッグ・ボイド氏の誤り


 グレッグ・ボイド氏は、米国におけるオープン神論(開放的神論)の代表的推進者の一人でもあり、自ブログ1において積極的にオープン神論を説いています。
 
 オープン神論とは、如何なる概念なのでしょうか。古典的神論と、どういった点で異なるのでしょうか。 
 
 以下に、ボイド氏のブログからオープン神論の概観を引用します。
 
 
 
 
概観
 
オープン神論とは、未来に対する選択肢(possibilitiesが実在する世界を、神が創造されたとする信条のことを言う。
 
一方、古典的神論は、歴史上のあらゆる事実は、永遠の昔から定められていると主張する。
 
カルビン主義は、神がそのように意図していると主張し、アルミニウス主義は、神は単に将来を知っているだけだと主張している。
 
オープン神論の信奉者は、人間や天使が自由意志を持つ存在として創造され、これらの行為者(agents)に、これから起こることに関して意見を述べる権限が与えられていると考える。
 
それゆえオープン神論においては、人がどう行為するかが、神に対して真実な影響をもたらし、ゆえに将来起こる事柄に影響する(と考える)。
 
特に、神の主権的な意図のゆえに、神の民が祈るか否かに物事の行方が真にかかっている(と考える)。
 
オープン神論の信奉者がこのように考える主な理由は、部分的に開かれた未来を聖書が教えていると考えるからである。
 
神が未来の一部を事前に定めていたり予知していることを示す聖書箇所は確かにあるが、
 
将来の選択肢が部分的に残されていることを示す聖書箇所も多数ある。以下に、そのような箇所を幾つか挙げる。
                               
1:主は状況の変化に応じて、あるいは祈りの結果として、頻繁に思いを変えている。
 
出エジプト記3214民数記141220申命記91314182025、1サムエル記22736、2列王記2017、1歴代誌2115、エレミヤ2619、エゼキエル20522アモス716、ヨナ1232410  
                              (引用終わり)
 
問題点    
                   
 上記の概観では述べられていませんが、ボイド氏は著書「God of the Possible」(可能性の神)の中で次のような見解を述べています。
 

例えば、2列王記20章は、未来はある程度、開いており(open)、神は将来的に起こることについての詳細一つ一つはご存知でないことを示唆しているように見える。
 
3年後に私が確信したのは、従来の概念が間違っていたということである。
 
すなわち、未来は余す所なく定められており、神はそのようなものとして未来を知っておられるという概念である。
 
私は、未来は少なくともある程度、結果が未確定(open ended)であり、神はそのようなものとして未来を知っておられると信じるようになった。2 

                      (引用終わり、強調はブログ主)                                                                            
 
 私(ブログ主)は、「未来は少なくともある程度、結果が未確定(open ended)であり」という部分には同意しますが、
 
 冒頭の「神は、将来的に起こることについての詳細一つ一つはご存知でない」という部分は問題だと思います。
 
 なぜ問題かというと、この言説は神の全知性をあからさまに否定しているからです。
 
 神の全知性は、例えば次のような箇所から明らかです。
 
 
ヨハネ3:20 
なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです
 
詩篇139:4 
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
 
詩篇139:16 
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
 
 
2:Greg Boyd, God of the Possible: A Biblical Introduction to the Open View of God (Grand Rapids, MI: Baker, 2000) p. 8.
 
 
検証
 
 ボイド氏は、自身が「神は将来的に起こることについての詳細一つ一つはご存知でない」という考えを持つようになったのは、2列王記20章を解釈した結果だとしています。
 
 しかし、この箇所は、本当にそのようなことを教えているでしょうか?
 
 このブログの過去記事にも書きましたが、この箇所を解釈すると、むしろボイド氏の見解とは逆のことが浮き彫りになります。
 
 
2列王記20:1~7 
そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。
3 「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。
4 イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような主のことばが彼にあった。5 「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。6 わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」7 イザヤが、「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい。」と命じたので、人々はそれを持って来て、腫物に当てた。すると、彼は直った。
 
 
 1節で主は、ヒゼキヤに「あなたの家を整理せよ」と命じていますが、この命令の実質的な内容はどのようなものでしょうか。
 
 それは、彼の死後、王家の運営に備えて政務の引継ぎをせよという意味です。その引継ぎには、後継者の任命が含まれていました。
 
 ところがヒゼキヤには大きな問題がありました。彼には世継ぎがいなかったのです。
 
 Ⅱ列王記20章の最後と21:1を見ると、ヒゼキヤが死んだとき、息子のマナセはまだ12歳でした。
 
 ヒゼキヤが癒されてから死ぬまで15年生きたわけですから、この命令が語られたとき、ヒゼキヤには子供がいなかったことになります。
 
 ですからヒゼキヤにとってこの問題は深刻です。後継者の任命ができないまま、死を迎えなければなりません。
 
 ヒゼキヤよりも更に深刻なのは、神ご自身です。なぜならこの事態は、ご自分が結んだ契約が破られることを意味するからです。
 
 その深刻さを理解するために、ダビデ契約を少しだけ見てみましょう。
 
 
ダビデ契約
 
Ⅱサムエル記716
あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。
 
 
 上記の箇所は、ダビデ契約の最後の部分です。ダビデの血筋を引く王様が、ユダ王国を永遠に治めると約束されています。
 
 ということは、ヒゼキヤの跡継ぎは、彼の息子でなければなりません。
 
 ですからヒゼキヤは、2列王記20:1の命令にどれほど困惑したことでしょう。神は契約を破るのでしょうか。いいえ、それはあり得ません。
 
 一つの可能性は、この事態は、神が意図的に用意した試練と考えることです。例えば、約束の子イサクを殺せと命じられたアブラハムのような試練です。
 
 
試練~神ご自身の栄誉のため
 
 神が人に試練を与える場合、普通私たちは、その目的は私たちの訓練のためだと考えます。
 
 しかし以下の箇所では、試練は神ご自身のために行うものだと述べられています。
 
 
イザヤ481011
見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。
わたしは悩みの炉であなたを試みた。
わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う
どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。
 
 
 また私たちは、神が窮地の中から私たちを助け出してくださるとき、それは私たちのためだと考えます。私たちを愛しておられるから助けてくださったと。
 
 しかし聖書を見ると、必ずしもそうとは限らないことがわかります。
 
 
Ⅰサムエル1222
まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。
 
 詩篇1068
しかし主は、御名のために彼らを救われた。それは、ご自分の力を知らせるためだった
 
 
 これらの箇所は、民が大切だったから神が彼らを救ったとは言っていません。民よりももっと大切なもの、つまりご自分の名のために彼らを救ったと述べているのです。
 

契約の神

 このように、神が人を救ったり人のために何らかの行動をとるとき、必ずしも人が大切だからそうするわけではりません。ご自分の栄誉や義のためにそうするのです。
 
 ヒゼキヤの場合もそうでした。それは次の箇所からわかります。
 
 
Ⅱ列王記206
わたしはアッシリヤの王の手から、あなた(ヒゼキヤ)とこの町を救い出し、わたしのため、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。
 
 
 聖句の後半に「ダビデのために」とありますが、ダビデはこのときすでに死んでいてエルサレムに住んでいるわけではありません。
 
 ですからこれは、ダビデ自身のために町を守るという意味ではなく、ダビデと結んだ契約のために、という意味です。

 契約を破ると神の栄誉が廃れてしまうので、ご自分の栄誉を保つために町を守るのです
 
 ヒゼキヤの話に戻りますが、Ⅱ列王記205を見ると「あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる」というフレーズがあります。
 
 ここで主はご自分を「ダビデの神」と呼び、ご自身が契約を忠実に守る神であることをアピールしています。
 
 ヒゼキヤ自身も、主が契約を守る神であることよく知っていました。Ⅱ列王記2023に、「ヒゼキヤは…主に祈って、言った。『ああ、主よ。どうか思い出してください。』」とあります。
 
「主」という表現はヘブル語ヤーウェの訳語で、主なる神が契約の神であることを示しています。
 
 このように、私たちの神は契約の神です。神は何よりも契約を守ること、つまりご自分の義を貫くことを重視します。
 
 契約を破れば神の栄誉が廃れます。ですから神は契約に忠実なのです。
 
 ヒゼキヤに与えられた試練の中心的な目的は、神がご自分の忠実さを顕示することにありました。
 
 契約を忠実に守る神、誓ったことを決して曲げない義なる神であることを示すことが目的だったのです。
 
 ヒゼキヤの祈り(2列王記203も、神が当初から予知していたものと考えるべきです(詩篇139:4
 
 神はご自分が当初から意図していたとおり、ヒゼキヤの祈りに答えて彼をいやし、エルサレムの町を窮地から救いました。
 
 結局すべてが神の栄光のためであり、主は初めからこうなるように計画していたのです。
 
 
結論
 
 そういうわけで、ボイド氏の「2列王記20章は…神は将来的に起こることについての詳細一つ一つはご存知でないことを示唆している」という見解は誤りです。
 
 むしろ神は、特定の状況において私たちが何を考え、何を祈るか、すべてご存知なのです。
 
 その予知に従って、ご自分で特定の状況を創り出し、人とのやり取りの中でご計画を進めているのです。
 
 終わり
 
 
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