オープン神論は秘められた偶像崇拝を助長するbyジョン・パイパー
この記事では、ジョン・パイパー氏1によるオープン神論の批判論考2を抄訳します。
注1
*****
オープン神論は、私たちの心の奥にある偶像崇拝を、覆い隠す可能性がある。
人間の心にある最も強い欲求の一つは、地上の宝を、キリストよりも大切にしようとすることである。
誰かを、あるいは何かをキリストよりも大切にすることは、偶像崇拝である。
パウロはコロサイ3:5で、次のように言っている。
ですから、地上のからだの諸部分、…むさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
私たちは、地上の業績や所有物によって満足するよりも、キリストやキリストの知恵によって満足しなければならない。
では、オープン神論は、如何にして心の奥の偶像崇拝を助長するのであろうか?
オープン神論では、様々な災害や悪の究極的原因は、サタンや人間の自主的意志の故だと考える。
実際は、万事の成り行きを究極的に決めるのは、神の意図や神の知恵であって、サタンではないにもかかわらずである。
一例として、グレッグ・ボイドはこう言っている。
ある人が別の誰かに痛みをもたらした場合、その事の中に「神の目的」を見出すことはできないと私は思う。…
第三者によって引き起こされた惨劇の中に、往々にして「神の目的」があるとクリスチャンたちが述べていることを私は知っている。…
しかしそれは、私に言わせてもらうなら、思考の敬虔なる混乱である3。
注3:Letters from a Skeptic [Colorado Springs: Chariot Victor Publishing, 1994], p. 47
同様に、ジョン・サンダースは、次のように書いている。
神は、悪い出来事一つ一つの中に、具体的な目的を持っているわけではない。…
生後2カ月の幼児が不治で痛みの強い骨癌にかかった場合、それは苦しみと死を意味する無意味な悪だ。
ホロコーストも無意味な悪であり、幼い少女のレイプや肢体の切断も無意味な悪である。…
神はそういったことの中に、具体的な目的など持ってはいない4。
注4:The God Who Risks [Downers Grove: InterVarsity Press, 1998], p. 262
*****
もし「神の目的」が究極的でないと言うなら、何が究極的なのだろうか。それは、人間の意志か、悪霊の意志ということになる。
人の意志は、究極的には「自己決定的」である。それゆえ(オープン神論の信奉者が考えるように)神を驚かすことさえあり得る。
また、悪霊の意志も、究極的には「自己決定的」である。
例えばボイドは、「時として神は、個人の悪意をご自分の目的のために用いることがある」と、認めた上で、
「これは決して、悪霊による一つ一つの働きの背後に、神の意志があることを意味するわけではない」5と言っている。
「自己決定的で極めて邪悪な存在が、この世を支配しているからだ。」6
「この世のあらゆる悪の背後にある究極的な理由は、神ではなくサタンのうちに見出される。」7(強調はパイパー氏)
注5:God at War [Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 1997], p. 154, cf. 57, 141
注6:同p. 54
注7:同p. 54
*****
このような世界観は、どのようにして心の偶像崇拝を助長するのだろうか?
それは次のように機能する。
万事の成り行きを最終的に決めるのは神であるが(ヨブ2:10、アモス3:6、ローマ8:28、エペソ1:11)、オープン神論はそれを否定している。
物事の結末を握っているのは神の知恵であるが(ローマ11:33~36)、オープン神論はそうではないと断言している。
また、神はあらゆる惨状の中にあっても、私たちの益となる計画を実現するが(エレミヤ29:11、同32:40)、オープン神論はそうではないと言っている。
つまりオープン神論は、災いを起こしたり許容することの中に、神の知恵や目的があると考えるべきではない、と暗示しているのだ。
言い換えると、オープン神論は、私たちが経験する惨状の中には、どのような神の目的があるのだろうか、と問うことを妨げてしまうのだ。
(中略)
神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精練するように、私たちを練られました。あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷を着けられました。あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。詩篇66:10~12
パウロが肉のとげを取り去って欲しいと祈ったとき、キリストはその痛みの目的が何かを語られた。
このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。2コリント12:8~9
パウロに対する試みは、キリストの力の偉大さに価値を置くか、痛みのない人生に価値を置くかの問題であった。
(中略)
こうした試練は、地上的なものに対する愛着の度合いを浮き彫りにする。困難を通るとき、私たちの内なる偶像崇拝が露わにされるのである。
(中略)
これは価値ある発見である。なぜなら、この発見が悔い改めにつながり、万事は順調だという惑わしではなく、キリストを慕い求めることにつながるからだ。
ところがオープン神論は、惨状の中に神の目的があることを否定しており(神は悪い出来事一つ一つの中に、具体的な目的を持っているわけではない)、心の偶像崇拝をぼやかしてしまう。
オープン神論は、痛みの中にある神の憐み深い意図を理解させようとしない。
オープン神論は、意図などないと教えるか、
私たちになされた悪はサタンか悪人の意図だと教えている(この世のあらゆる悪の背後にある究極的な理由は、神ではなくサタンのうちに見出される)。
(中略)
神がすべてを支配しており、すべてを知っておられると信じるなら、それは偶像崇拝を浮き彫りにする一助となる。
(しかし)一つ一つの出来事の中に神の目的はないと信じるなら、それは偶像崇拝を隠すことを助長する。
こういうわけで、オープン神論は、偽る傾向のある人間の心に必要な、神の恵みを減らしてしまう嫌いを持っているのである。
終わり