ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

勝利者キリスト説とグレッグ・ボイドのダブルスタンダード

 
 米国でキリスト教進歩主義やオープン神論を推進している神学者グレッグ・ボイド氏は、救済論の領域でも個性的な見解を持っています。
 
 こんにち私たち福音主義のクリスチャンが信奉する救済論は、「刑罰代償説」と呼ばれています。
 
 イエス・キリストが罪人である私たちの罪を負い、身代わりに神の罰を受けてくださったので、私たちは信じることによって罪赦され、救われるという概念です。
 
 一方、ボイド氏が推進している救済論は、「勝利者キリスト説」と言われる概念で、1931年に出されたグスタフ・アウレンの著作「Christus Victor」に由来します。
 
 アウレンは、初代の教父たちがこの説を信奉していたことから、より正確な概念であるはずだと考えました。
 
「新キリスト教辞典」(いのちのことば社)にはこう書かれています。
 

初代のギリシャ教父たちは、神の贖罪のわざを、悪に対する神の勝利と見る。彼らは、この世界を神と悪との闘いという宇宙的な視点から見ている。
 
人間はサタンの支配下に置かれているのであるが、神が人間をサタンの支配から救い出すために、キリストをサタンに身代金として支払ったというのである。
 
この考えは、殉教者ユスティノスによって提起され、オリゲネスそしてニュッサのグレゴリオスに受け継がれた。P570
 
 
 また、佐藤優氏の日本人のためのキリスト教神学入門では、次のように書かれています。
 
 
悪魔は罪に堕ちた人類に対して勝利を得ており、神もそれを尊重しなければならなかった。
 
このサタンの支配と抑圧から人類を解放する唯一の手段は、悪魔が自分の権威の限界を越えることで自分の権利を剥奪されることである。
 
それはどうしたら達成出来るだろうか。グレゴリウスの考えでは、それが出来るのは罪のない人間が、しかし通常の罪ある人間の姿で世に入るときである。
 
悪魔は手遅れになるまでそのことに気づかない。
 
この罪なき人に対する権威を主張することで、悪魔は自分の権威の限界を踏み越えてしまい、その結果、自分の権利を放棄せざるを得なくなるのである。
 
アリスターEマクグラス神代真砂実訳]『キリスト教神学入門』教文館2002年、567頁)
 
 
キリスト勝利者説の問題点
 
 このキリスト勝利者説には、いくつかの問題点があります。
 

1.神とキリストが律法を打ち破ったと教えている
 
同説では、キリストはその死と復活において人類を従属させていた勢力に打ち勝ったが、その勢力は、悪魔、罪、律法、そして死であると理解されている。
 

 しかし聖書は、こう言っています。

 
マタイ5:17 
わたしが来たのは律法預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです
 
ローマ7:12 
ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
 
 
 ですから、神やキリストが、律法を打ち破ったと考えるのは誤りです。
 
 
2.人間の罪深さを軽視
 
同説の人間論は、人間の罪深さではなく、人間が被害者であることを強調している。
 

 しかし聖書は、悪いのは人間とその罪だと言っています。
 
ローマ31012
義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。
 
ローマ7:13 
では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
 
 
3.キリストによる罰の身代わりを軽視
 
同説は、「神経質な代償的贖罪論」は捨て去るべきと主張しており、父なる神が御子の死によって怒りを鎮めるという構図は、間違いだと考えている。 
 

 しかし聖書は、キリストの代理贖罪を明確に述べています。
 
 
第二コリント5:21 
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
 
第一ペテロ2:24 
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
 
 
 また聖書は、私たちは神の怒りから救われたと教えています。
 

ローマ5:9 
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

 
 そして、キリストの犠牲が、神の怒りをなだめたとも教えています。
 

第一ヨハネ2:2 
この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。
 

「なだめの供え物」と訳されているヒラスモスというギリシャ語の意味は、「怒りをなだめる(あるいは満足させる)捧げ物」です。
 

 
 
ボイド氏のダブルスタンダード
 
 また、ボイド氏について言うと、ブログ1における言説から、彼がダブルスタンダードであることがはっきりわかります。
 
 ボイド氏は、次のように述べています。
 

キリスト勝利者説は、聖書に一貫して見られる広範な霊的戦いというモチーフを評価することなしには理解できない。…
 
聖書の物語は、神に敵対し被造物の脅威となっている宇宙的存在や人間に対して、神が究極的に勝利するという物語を正確に描いている。
 
旧約聖書では、通常この戦いは、敵意のある水や獰猛な海獣と神の戦いとして描かれている。敵意のある水や海獣は、地球を取り囲み、脅威をもたらしていると考えられていた。…
 
詩篇293410詩篇741014詩篇771619詩篇89910詩篇10429箴言82729ヨブ記712ヨブ記9813ヨブ記261213ヨブ記38611ヨブ記40章~41章、エセキエル293、エゼキエル322、エレミヤ5134ハバクク3815、ナホム14
 
 
 
 上記で述べられていることは、過去記事でご紹介したボイド氏のブログでは、聖書に誤りがあるとする根拠として述べられていました。
 
 ボイド氏は「敵意のある水や地球に脅威を及ぼす宇宙的海洋ドラゴンなど存在しない」として、それらの存在を否定しています。
 
 そして、「その宇宙観は科学的に誤りである」と述べて、聖書に誤りがあると主張するために、敵意のある水や巨獣の描写を利用しました。
 
 一方では、自説を肯定する根拠として用い、他方では聖書の無誤性を否定する材料として使うというダブルスタンダードをとっています。
 

●あとがき

 このような主張は学問的に破綻しており、知的にも不正直です。ボイド氏の言説は、信頼に値しません。
 
 このような学者を指導者として仰ぐキリスト教進歩主義もまた、ダブルスタンダードで矛盾を内包していると疑わざるを得ません。
 
 また、ボイド氏が推進するオープン神論、キリスト勝利者説なども、信頼に値しない学説である可能性が高いのではないでしょうか。
 
 終わり