ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「私は同性愛を罪と見なしている」グレッグ・ボイド

 
 キリスト教進歩主義など、ポストモダンな信仰を牽引するグレッグ・ボイド氏ですが、
 
 今回、取り上げるブログ記事1では、かなり正統な発言をされています。
 
 
 
「私は同性愛を罪と見なしている」
 
 表題にあるとおり、「私は同性愛を罪と見なしている」とボイド氏は言明しています。以下のとおりです。
 
 
旧約聖書に3カ所(創世記19113レビ記18222013)、新約聖書に3カ所(ローマ12627、1コリント6910、1テモテ110)、
 
伝統的に同性愛を禁じていると理解されている箇所がある。
 
それに加え、聖書全体の前提として、セックスは一人の男と一人の女からなる結婚という枠組みの中で行われるものと考えられている(創世記22324)。
 
「罪」の聖書的定義づけは、「的外れ」(ハマルティア)である。
 
この聖書的根拠に基づくなら、同性愛は、神の理想からの「的外れ」と見なさざるを得ない。
 
そういうわけで、私は同性愛を罪と見なてしている。
 
 
 
アルセノコイタイ
 
 しかしボイド氏は、1コリント69と1テモテ110で「男色をする者」と訳されているアルセノコイタイの意味について、多くの学者が曖昧だと主張していると述べ、
 
ボイド氏自身も、「そのような議論に説得されていはいないものの、不用意に退けることもできない」としています。
 
 確かに、巷(福音主義内部)において、アルセノコイタイの意味が議論されています。
 
 クリスチャンの中には、アルセノコイタイは同性愛者を意味していないと、あからさまに否定する人もいます。
 
 以下に一例を挙げます。
 
 
「男色をする者」と訳される単語「アルセノコイタイ」は、もともとは「男娼」の意味で、男娼は異教の礼拝と結び付いた伝統であったため、非難された。いずれの箇所も、異教(偶像礼拝)との結び付きが批判対象の主眼ではないか、と堀江さんは述べ、「そもそも日本語の聖書の中に『同性愛』という言葉はどこにもありません。…
 
引用元:クリスチャン・トゥデイ「レズビアン」という生き方
 
 
検証
 
1コリント6:9~10 
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
 
1テモテ1:9~10 
すなわち、律法は10 不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。
 
 
 上記の箇所で、「男色をする者」と訳されているのはアルセノコイタイ(単数形:アルセノコイテース)というギリシャ語で、
 
 英語の聖書では「homosexals/同性愛者たち」と訳されています。
 
 同性愛や同性婚を支持するクリスチャン(学者)は、アルセノコイタイの意味を曲解したり、曖昧にしたがりますが、
 
 七十人訳旧約聖書ギリシャ語訳)を参考にすることによって、アルセノコイタイの意味はとても明確になります。
 

 レビ記20:13 
がもし、女と寝る(ギ:コイテーンように男(ギ:アルセノスと寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。


 レビ記20:13を七十人訳で見ると、「男」はアルセノス、「寝る」はコイテーンと書かれています。

 アルセノコイタイの単数形は、アルセノコイテースですから、この言葉が「男」と「寝る」を合わせてできたものであると推察することは難しくありません。

 この点については、七十人訳の原文を見ることが大きな助けなります。


καὶ ὃς ἂν κοιμηθῇ μετὰ ἄρσενος κοίτην γυναικός, 
また誰でも 寝た  ~と  男 結婚の寝床 女の 
 

 七十人訳の該当箇所は、上記のように語順が変わり、「アルセノス コイテーン」と連続することになります

 ギリシャ語文法の語形変化を考慮すれば、アルセノコイテースが七十人訳のこの箇所に由来していることは確実です。

 事実、ギリシャ語辞典の説明にも、アルセノコイテースは「男」(アルセン)と「結婚の寝床」(コイテー)の2語からできていると説明されています。  
 
 このように、アルセノコイタイ(単:アルセノコイテース)が、レビ記に書かれている男同士の性交渉を示す言葉であることは明白です。

 アルセノコイタイの起源からわかることは、聖書全体が同性同士の性行為を罪と定めていることです。

 この原則は、現代の同性愛や同性婚にも当てはまることで、この点について言い逃れするのは無理と考えるべきです。
 
 
現実的な適用
 
 しかし私は、同性愛の問題を考える上で、科学的な分析結果も参考にする必要があると考えています。
 
 同性愛が遺伝的(先天的)なものか、後天的なもの(意図的選択)かの研究が欧米で行われていますが、現段階ではどちらとも言えない状況です2
 
 ある研究では、同性愛は後天的なものという結果が出ています3(ゆえに性的指向は本人の選択によることになります)が、
 
 別の研究では、母体の中にいる段階でホルモン異常の影響を受け、先天的に男色傾向をもって生まれて来るとする説もあります4
 
 後者に基づいて考えると、同性愛は一種の障害ということになりますから、福音主義保守派がしばしばとるような断罪の仕方は正しいと言えなくなります。
 
 この点について、クリスチャンのための同性愛についての資料と牧会的指針というサイトが、詳細かつ的確な解説をしています。
 
 私はこの資料の著者の見解に賛成です。
 
 
私なりの意見は、両極端に走らないことです。
 
一つ目の極端は、聖書の原則を機械的に適用することのみに集中し、すべての科学的な研究成果を排除してしまう姿勢です。それは人間理解に乏しい律法主義に陥るでしょう。
 
愛は、相手を理解しようとすることを基本とします。私たちは、そのような他者理解という愛の姿勢が欠如していてはならないでしょう。

もう一つの極端は、これらの科学的成果を全面的に信頼して、それに倫理的基準を置いてしまうことです。
 
私たちはあくまで聖書に記された神からの啓示を倫理的な基準として最優先すべきでしょう。
 
また、科学的研究は日進月歩です。現在、一般に信じられている仮説も将来は否定される可能性があるのですから、それらを聖書よりも高い基準に置くべきではないでしょう。
 
やはり、聖書の優先権は死守すべきだと考えます。
 
 
 
 
●おわりに
 
 同性愛に関しては、保守派も進歩主義者も、聖書と科学的研究結果の両方から学ぶべきです。
 
 同性愛の完全な肯定とか、完全な否定という両極端に走ることがないよう、注意しましょう。
 
 終わり