キリスト教進歩主義による刑罰代償説の否定は正しいだろうか?
刑罰代償説は、彼らが言うように間違っているのでしょうか?
この記事では、いわゆる「刑罰代償説」が間違いかどうかを検証したいと思います。
●批判の事例
やっぱり代罰贖罪説は抹殺しないといけない。百害有って一利なし。キリストを殺したのは人間であり、よみがえらせたのが神。神がキリストを十字架で死なせたのではない。その必要があったのでもない。
キリストが全人類の身代わりに罪を背負って罰を受けて死んだという考えは中世までほぼ存在しなかった。東方の教会ではそのような十字架理解が受け入れられたことはないし、西方でも歴史の大部分では存在しなかった。つまり、代罰説=福音ではない。
●刑罰代償説は歴史的
完全否定していない理由は、次のような人々が刑罰代償説を信奉していたという認識があるからでしょう。
初期の教父たちの発言をいくつか確認します。
エウセビオス:4世紀の歴史家でカエサレア・マリティマの司教
神の小羊は…私たちの身代わりに懲らしめられ、ご自分ではなく私たちが犯した多くの罪の刑罰ゆえに苦しんだ。それにより、彼は私たちの罪を赦す根拠となった。なぜなら彼は、私たちの代わりに死を受け入れ、鞭で打たれ、嘲られ、辱められることに身を任せたからだ。それは私たちの故であった。彼は定めに従い、呪いをその身に受けた。私たちの代わりに呪いとなられたのだ。
(Eusebius of Caesarea, Demonstratio Evangelica, X.1)
クリソストム:4世紀の教父でコンスタンティノープルの司教(347~407年)
人間は罰を受けるべきである。なぜなら、律法全体を守らなかったからだ。キリストは、並外れた呪いを皆済した。「木に架けられる者はみな呪われる」と言われる呪いである。木に架けられる者も律法に違反する者も、どちらも呪われる。その呪いを受けようとしていたキリストは、その呪いを受ける責任がなかったが、彼は呪いを受けなければならなかった。彼は、その責任がないにもかかわらず、呪いを受けた。それによって彼は、呪いを取り去った。ちょうど、ある人が死の宣告を受けて、別の無実の人がその人の代わりに死ぬことを選択し、その人を罰から解放するように、キリストもそのようにされた。
(Homily on Galatians 3:3 (ACD, vol. 3, p. 108)
アウグスティヌス:4世紀の教父
この公同の信仰は、神と人との唯一の仲介者について(以前から)認識してきた。それは、人としてのキリスト・イエスである。イエスは罪の罰としての死にまでも従われた。罪のない方が私たちの罪のためにである。彼だけが人の子となられたのは、私たちが彼をとおして神の子どもとなるためであった。彼だけが悪の罰に値しないにもかかわらず、彼は私たちの身代わりに罰を受けられた。それは、善に値しない私たちが、彼をとおして恵みを得るためである。
(Against Two Letters of the Pelagians, Book 4, chap. 7)
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上記の言説は、どれもキリストが人間の身代わりに罰せられたことを述べており、刑罰代償説がキリスト教の初期から信じられてきたことを示しています。
引用元には、他にも数点の事例が掲載されています。
●検証1
上記の批判には、「神がキリストを十字架で死なせたのではない。その必要があったのでもない」という発言が見られます。
しかし、聖書は逆のことを言っていると思います。
2コリント5:21
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
この箇所の前半の主語は「神」です。「神は…(キリストを)罪とされました」と言っています。
キリストを罪としたのは神ですから、主イエスを十字架で死なせたのは神だと言えます。
この点は、イザヤ53章からも言えます。
6節に「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とあります。
ここでの「主」はヤーウェで、「彼」はキリストを指していますから、神がキリストに罪を負わせたことがわかります。
10節には「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった」とあります。
ここでも「彼」はキリストを指しており、「主」はヤーウェを指していますから、キリストを十字架にかけることは、神の意図であったことがわかります。
イエスを十字架につけることは、神の計画であったことがわかります。
このように、聖書は明確に、イエスを死なせたのは神であると教えています。
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2コリント5:21にもどりますが、聖句の後半には「それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」とあります。
つまりパウロは、神がキリストを罪としたのは、信じる者たちを義とする目的のためだったと言っているわけです。
「神の義」の部分をギリシャ語文法的に解説すると、「神」の部分がセオスの属格であるセオウで書かれています。
これはどういうことかというと、「義」は神に属するものであるということです。
人間が義を獲得するには、その持ち主である神からもらう必要があるということです。
これはローマ3:10の「義人はいない。ひとりもいない」と一致します。
すべての人間は、義の状態ではなくなっており、神と交わるためには義の状態を回復する必要があるのです。
あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない。悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない。
イザヤ59:2
あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
人間に義の回復が起こらない限り、神は人間と交わることができません。
しかし神は人を愛しており、交わることを願っています(ルカ15章、ヨハネ3:16)。
このことをキリストから見れば、人を義とすることはキリストに対する神の要求であることになります。
キリストを罪とすることで、人間の罪を取り去り、代わりに「神の義」を人間に与え、神と交われるようにすることは、神の愛から出た願いだからです。
でこういうわけで、「その必要(神がキリストを十字架で死なせる必要)があったのでもない」というのも間違いです。
神は人間を愛するがゆえに、神のものである義を人間に与える必要がありました。そうしなければな交われないからです。
そのためには、人間の罪を別の存在に転嫁するしかなく、その転嫁先をキリストにしたのです。
イザヤ53:10の「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった」は、まさにそのことを示しています。
これは、神がキリストを十字架で死なせる必要があったことを裏打ちするものです。
●検証2
「多くのクリスチャンが否定するのは、キリストが神の義の要求を満たすために我々の代わりに罰を受けた生贄で、父が子にそれを受けさせたという理解です1」
しかし、こと聖書がどう教えているかという点では、上記の発言は間違いです。
ローマ3:25~26
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは(エイス)、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。26 それは(プロス)、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
上記の箇所では、十字架の目的は、神の「義を現わすため」だったと繰り返し述べられています。
また、「義を現わすため」に相当する部分は対格です。
エイス+対格は目的を表す表現ですから、「義を現わす」ことが神の目的であったことがわかります2。
この箇所においても「義を現わすため」に相当する部分は対格ですから、「義を現わす」ことが神の目的であったことがわかります3。
このように、神はキリストの十字架をとおして、神の義を表明することを目的にしていました。
神から見れば、御子にその目的を果たさせることが願いであり、キリストから見れば、十字架で神の義を表すことを要求されていたのです。
注2:ギリシャ語文法「前置詞エイス」、3. Purpose: for, in order to, toを参照
●おわりに
決して冒してはならない創造者の栄誉を傷つけた人間に対して、義なる神が尊厳をもって臨まれるとき、道は二つに一つである。
栄誉を回復するか、それとも刑罰によって人類を滅ぼすか。
神は、後者を望まれず、栄誉を回復される道を選択された。その回復の道が罪の償い(satisfactio/義の満足)である。
(中略)
さて、ローマ三・二五において「なだめの供物」以外の訳語を好んだとしても、十字架理解から「なだめ」の要素を完全に取り去るわけにはいかないだろう。
確かに、十字架は神の愛を基盤にし、神の側から発せられた救いの出来事である。
だが、私たちは、罪と罪人との上に臨んでいる、神の怒りと裁きの事実に目をつぶるわけにはいかない(ローマ一・一八、二・五、三・一八)。
それは、二者の間の壁となり、敵意となって、立ちはだかっていたのである(エペソ二・一四ー一八)。
(引用終わり、強調はブログ主)
上記で述べられているとおり、神の側にある「義の満足」という必要を満たしたのが、キリストの十字架です。
1ヨハネ2:2
この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。
終わり