「聖書信仰とその諸問題」の目次と感想
少し前のことになりますが、「聖書信仰と諸問題」という良書を読みました。どのような本か知りたい方のために、記事を書きます。
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目次
はじめに 鞭木由行
聖書信仰の諸問題 赤坂泉
「聖書信仰」の諸側面/日本における「聖書信仰」の軌跡/聖書信仰の諸問題/聖書信仰のゆらぎ――そして〈今も〉/いくつかの課題/むすびに
『聖書の無誤性をめぐる5つの見解』 伊藤暢人
パートⅠ 無誤性に関する諸観点と過去/パートⅡ 国際的な観点から見た無誤性
パートⅢ 今日のために無誤性を再生ないし再構成する諸観点
聖書信仰と批評学――「アダムの歴史性」 津村俊夫
聖書批評学の変遷/「聖書信仰と批評学」/「アダムの歴史性」/A アダムの歴史性――系図の役割
聖書論と組織神学――ピーター・エンズのアダム論より 児玉剛
はじめに/Ⅰ ピーター・エンズの聖書観/Ⅱ エンズのアダム論/Ⅲ エンズの問題点/まとめ
新約聖書における旧約聖書引用の問題 三浦譲
Ⅰ 序 Ⅱ 山崎ランサム和彦著「新約聖書における使徒的解釈学――現代福音主義への示唆」/Ⅲ 福音主義内の「新約聖書における旧約聖書引用」の議論/Ⅳ マタイの福音書2章15節におけるホセア書11章1節の引用理解/Ⅴ 結
物語神学と聖書信仰 横山昌英
はじめに/物語神学の起源と拡がり/日本の聖書信仰における物語神学の受容/素朴な疑問など/おわりに
キリストの権威と聖書信仰 鞭木由行
新約聖書が証言するイエスの至高の権威/信仰の出発点としての至高のキリスト/キリストと旧約聖書の関係/キリストと新約聖書の関係/キリストの聖書観/反論I 1世紀のユダヤ人の聖書観/反対論Ⅱ 循環論法にすぎない/結論
聖書信仰と無誤性 鞭木由行
問題の所在/第一部 聖書/第二部 聖書信仰と無誤性の歴史的検証/結論 無誤性と聖書信仰
巻末付録
聖書信仰と批評学――「アダムの歴史性」 津村俊夫
聖書批評学の変遷/「聖書信仰と批評学」/「アダムの歴史性」/A アダムの歴史性――系図の役割
聖書論と組織神学――ピーター・エンズのアダム論より 児玉剛
はじめに/Ⅰ ピーター・エンズの聖書観/Ⅱ エンズのアダム論/Ⅲ エンズの問題点/まとめ
新約聖書における旧約聖書引用の問題 三浦譲
Ⅰ 序 Ⅱ 山崎ランサム和彦著「新約聖書における使徒的解釈学――現代福音主義への示唆」/Ⅲ 福音主義内の「新約聖書における旧約聖書引用」の議論/Ⅳ マタイの福音書2章15節におけるホセア書11章1節の引用理解/Ⅴ 結
物語神学と聖書信仰 横山昌英
はじめに/物語神学の起源と拡がり/日本の聖書信仰における物語神学の受容/素朴な疑問など/おわりに
キリストの権威と聖書信仰 鞭木由行
新約聖書が証言するイエスの至高の権威/信仰の出発点としての至高のキリスト/キリストと旧約聖書の関係/キリストと新約聖書の関係/キリストの聖書観/反論I 1世紀のユダヤ人の聖書観/反対論Ⅱ 循環論法にすぎない/結論
聖書信仰と無誤性 鞭木由行
問題の所在/第一部 聖書/第二部 聖書信仰と無誤性の歴史的検証/結論 無誤性と聖書信仰
巻末付録
霊感の用語と概念――用語整理のための覚え書 舟喜順一
霊的体験としての霊感/機械的霊感/逐語霊感説/合理主義的「霊感」の理解/言語霊感と十全霊感/言語霊感
聖書は誤りなき神のことば――シカゴ声明再考 鞭木由行
霊感と無誤性/無謬性と無誤性/肉筆原稿と無誤性/無誤性あるいは不可謬性/霊感と無誤性
シカゴ声明
霊的体験としての霊感/機械的霊感/逐語霊感説/合理主義的「霊感」の理解/言語霊感と十全霊感/言語霊感
聖書は誤りなき神のことば――シカゴ声明再考 鞭木由行
霊感と無誤性/無謬性と無誤性/肉筆原稿と無誤性/無誤性あるいは不可謬性/霊感と無誤性
シカゴ声明
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●感想
この感想は、私の独断と偏見だと思ってお読みください。
まず本書は、目次をご覧いただくとわかりますように、シカゴ声明に固く立つ方々がお書きになった神学書です。
ですから、2テモテ3:16の解釈も、シカゴ声明ありきの解釈です。言い換えると、神の霊感によって書かれたのは、聖書の原典のみという立場です1。
私としては、この聖書観の偏狭さというかズレが、本書をつまらないものにしていると思いました。
つまり、シカゴ宣言と新約聖書の筆者たちの間には聖書観の相違があるわけです(どちらの聖書観が正しいかは、言うまでもありません)。
それが災いして、執筆陣による反証アプローチにどうしても柔軟性が感じられません。
シカゴ声明とぶつかる見解イコール非聖書的、と判断されてしまうからです。
もう少し相手の言っていることを受け入れた上で、正しい聖書観から反証してほしかったというのが私の感想です。
私に言わせていただくと、現状の福音派の聖書信仰は「聖書信仰シカゴ声明派」あるいは「シカゴ声明主義的聖書信仰」であって、真正に聖書的な聖書信仰ではありません。
その上で言いますが、本書は十分に読む価値のある一冊です。
欧米を中心に物議を醸している聖書の無誤性に対する攻撃が、まごうことなき誤りであることを改めて理解できる内容になっています。
そして、本書を読まれる方にお勧めしたいのは、本書を読む前に次の論考集をお読みなることです。
というのは、「聖書信仰とその諸問題」のP29~P30にかけて、この論考と中澤先生のことが取り上げられているのですが、
あたかも中澤先生の見解が間違いであるかのような扱いをされているからです。
本書のP29には、日本プロテスタント信仰同盟(JPC)が、「聖書の無誤性をめぐって」の内容を「聖書の無誤性の理解に関するゆらぎ」と見たと書かれています。
しかし中澤先生は聖書の無誤性をまったく否定しておらす、私は逆に中澤先生の主張のほうが正しいと思っているので、そのくだりを抜粋したいと思います。
*冒頭の「本論文」とは、「聖書の無誤性をめぐって」のことです。
本論文の中身はあまりに常識的なものであり、なぜこの程度のことが問題視されるのかが分からなかった。
ただ、日本の福音派の神学的状況は、欧米に比べかなり遅れていることだけは明らかになった。
日本の福音派が、自らの聖書学と神学方法論は近代の認識論哲学に基づいていることに気づき、
その狭い神学的ゲットーから脱却しない限り、未来の展望は開かれていない。筆者自身は、そのように確信した。
(P29~P30より、強調はブログ主)
この発言には、私が上記で述べた「シカゴ声明ありきの解釈」「聖書観の偏狭さ」と共通するものがあります。
私は、日本の福音派は、シカゴ声明を卒業しない限り、真の聖書観は持てないと思っています。
その上で最後に書き添えますが、ピーター・エンズやエンズを信奉している某聖書学者(目次に名が挙げられている方)が、
どのような点で間違っているのかを明確にされたい方は、本著「聖書信仰とその諸問題」を手に取られることをお勧めします。
終わり
10 霊感は、厳密に言えば、聖書の原本にのみ適用されること、その聖書本文は神の摂理によって私たちの手に入れうる諸写本から、高度の正確さをもって確認できることを私たちは主張する。私たちはさらに、聖書の写しや翻訳が、最初の本文を忠実に表現する範囲において、神のことばであることを主張する。
(強調はブログ主)
セプトゥアギンタ(70人訳聖書)
パレスチナから地中海沿岸世界に移住していったユダヤ人は、次第にヘブライ語を理解できなくなった。こうした事情からヘレニズム文化の中心地であったエジプトのアレクサンドリアにおいて、ヘブライ語聖書のギリシア語訳が行われた。紀元前3世紀中ごろ72人の翻訳者(イスラエル12部族から6人ずつ)によって72日間でト-ラ-(律法五書)の翻訳が完成したという逸話がある。これが70人訳聖書の由来である。新約聖書に引用されている旧約聖書の個所はこの70人訳からの引用であり、キリスト教が小アジア地方やマケドニア、ギリシアに進展して行ったのには、このギリシア語訳が大きく貢献した。
(強調はブログ主)