ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

キリスト教進歩主義者の稚拙すぎる聖書理解

 
 少し前のことですが、日本でキリスト教進歩主義を熱心に流布しているKFという青年が、SNS上でTrue Ark Bibleというサイトを批判していました。
 
 トゥルーアークさんの質問に答える中で、KFさんは次のように述べていました。
 

では逆に質問しますが、生贄なしに罪は赦されないのでしょうか?キリストの十字架以前は罪が赦されなかったのでしょうか?そんなことありません。

福音書の中でもキリストは「罪が赦された」と何度も仰っていますし、我々にも互いに赦し合うよう説いています。生贄が必要だとは言っていません。

 
 KFさんは、キリストが神への「生贄」であったことが受け入れられない様子で、次のように続けます。

 
キリストの死が罪の赦し、贖いだったと否定するクリスチャンはいないと思います。キリストがすべての罪を背負いそれを復讐ではなく赦すことで処理して下さったのです。

多くのクリスチャンが否定するのは、キリストが神の義の要求を満たすために我々の代わりに罰を受けた生贄で、父が子にそれを受けさせたという理解です。
 

 さらにKFさんは、ヘブル10:5~9を引用して、次のように述べます。

 
お分りですか?罪は生贄や血によって清められることはない、とはっきり書いているんです。

キリストの十字架の罪の赦しは、生贄と血がなければ神が罪を赦すことができないからではなく、神が人の罪を赦すこと、和解することが御心であり、それを最大限に示されたのです。
 
引用元:KFさんのFBページ(現在、引用箇所は削除済み)
 
 
問題点1
 
 KFさんは、英語と日本語のどちらも堪能で、キリスト教関連の知識は豊富です。
 
 しかし、この投稿に関しては、かなり稚拙な誤りが見られます。
 
 その一つ目は、次の質問です。

「生贄なしに罪は赦されないのでしょうか?」
 
 この質問に、直接答えている聖句があります。
 
 
ベブル9:22
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
 
 
「血を注ぎ出す」とは、生贄の命を捧げることを意味します。
 
 聖書の神が罪を赦すには、生贄が必要なのです。
 
 
問題点2

 KFさんは、キリストの生贄を繰り返し否定しているにもかかわらず、キリストによる贖いは肯定しています。

「キリストの死が罪の赦し、贖いだったと否定するクリスチャンはいないと思います。」
 
 しかし、贖いという言葉には、元々、生贄や犠牲という概念が含まれています。以下は、ウィキペディアからの引用です。
 
 
贖い(あがない)は、賠償の古語で、一般には罪を償う、あるいはそれに相当することを行うことを意味する。
 
旧約聖書において贖いとは
 
*人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すこと
*身代金を払って奴隷を自由にすること
*家畜や人間の初子を神に捧げる代わりに、生贄を捧げること。犠牲の代償を捧げることで、罪のつぐないをすること。
 
などの意味を持つ。

新約聖書ではキリストの死によって、人間の罪が赦され、神との正しい関係に入ることを示した。
 
引用元:ウィキペディア贖い」、強調はブログ主
 
*****
 
 
 つまりKFさんは、キリストの贖いを肯定することにより、意に反してキリストの生贄も肯定していることになります。
 
 
聖書の言及
 
 KFさんは、キリストが生贄であったことを否定するため、引用の中だけでも「生贄」という言葉を5回使っています。
 
 しかし聖書中には、キリストが神への生贄であったことを示す箇所が幾つもあります。以下はその事例です。
 

ヨハネ1:29 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊 

ヘブル9:26 
もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
 
ヘブル10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
 
ヨハネ2:2・新共同訳
この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。
 
 
 探せば他にもあるかと思いますが、これだけでも、キリストが生贄であった事実は十分わかると思います。
 
 KFさんの最大の失策は、ヘブル10:5~9を引用した後、「お分りですか?罪は生贄や血によって清められることはない、とはっきり書いているんです」と豪語したことです。
 
 その引用箇所の3節後に、「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて…」と書かれています(ヘブル10:12)
 
 つまりKFさんは、文脈にまったく意識を向けずに、的外れな引用をしているということです。
 
 ヘブル10:5~9が述べているのは動物の生贄のことで、それが不完全であるため、神は満足しませんでした(ヘブル10:6)。
 
 それでヘブル書の著者は、キリストという完全な生贄を神が必要としていると説明しているのです。
 
 もし、キリストという生贄なしに神が人の罪を赦せるのなら、そもそもキリストの十字架は不要でした。
 
 次の聖句は、そのアンチテーゼを示しています。
 
 
ヨハネ2:2 
この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。
 
 
 終わり