キリスト教進歩主義の歪んだ聖書理解
If mercy triumphs over judgment, shouldn't the verses about judgment be read in light of God's eternal mercy, and not the other way around?
(投稿はこの一文のみ)
訳
憐みが裁きに打ち勝つのなら、裁きに関する聖句は、神の永遠の憐みの光に照らして読むべきではないだろうか? その逆をするのではなく。
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これは、あくまで私の憶測ですが、この投稿のタイミングから察するに、
その記事の最後の部分で、私はこの聖句を挙げました。
ヤコブ2:13・新共同訳
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。
ESV
For judgment is without mercy to one who has shown no mercy. Mercy triumphs
over judgment.
英語の聖句の後半部分をご覧いただくとわかりますが、KFさんの投稿の前半と重なります。
記事を読んでいただたかどうかはさておき、この聖句を意識した投稿であることは間違いないでしょう。
●問題点
さて、一見すると、KFさんの投稿は妥当な主張に思えなくもありません。
しかし、このような概念に出会うとき、私たちが気づかなければならない点があります。
それは、解釈と適用を混同していはならないということです。
聖書教理を教えている箇所の解釈と、その教えの適用を描写した箇所とを混同したことによって、「聖書は矛盾している」という誤解に結びついています。
冒頭のKFさんの投稿も、懐疑論者と同じ誤りを犯しています。
わかり易く説明するために、具体例を挙げます。
イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
ここでイエスさまは、姦淫の女を憐みによって見逃しました。
「わたしもあなたを罪に定めない」というのは憐みによる判定であり、聖書に流れる憐れみを、この出来事に適用したものです。
従って、このヨハネの箇所をもって、「姦淫は罪ではない」と考えるならまったくの誤りになります。
なぜなら、そう考えることは適用ではなく解釈だからです。
では、正しい解釈は何かというと、「今からは決して罪を犯してはなりません」の部分がヒントになります。
この言葉により、イエスさまが、姦淫は罪であると理解しておられることがわかります。
しかし、聖書は憐みも教えているため、ここではそちらを適用して、姦淫の女を見逃しました。
KFさんの投稿における具体的な誤りは、「read in light of God's eternal mercy」の部分です(つまり「神の永遠の憐みの光に照らして読む」の部分です)。
この投稿における「read/読む」という言葉は、「解釈する」という意味で使われています。
しかし、KFさんのような解釈の仕方は誤りです。
KFさんは字義的な解釈を抜きにして、解釈と適用をすり替えてしまっているのです。
●解釈と適用の違い
実のところ、解釈と適用はまったく別の事柄です。
解釈というのは、聖書箇所の筆者の意図を汲み取ることです。
過去において聖書筆者の頭の中で発生した思いを、後代の読者が突き止めることです。
ですから、たとい時代の経過によって人間の文化的価値観が変遷しているとしても、
過去に筆者の脳の中で起こった知的出来事に対して、第三者である私たちが勝手に変更を加えることは誤りです。
それは筆者に対する知的侵害行為です。
しかし、そのイエスさまが変更を加えていなのですから、現代の私たちも変更を加えず、字義通りに受け取るべきです。
一方、適用というのは、まず聖書を解釈して、そこから抽出した聖書の真理を、個々の事例に当てはめることです。
それゆえ適用というのは、事実上、ケースバイケースです。
正確な解釈というのは一つしかあり得ませんが、適用というのは幾つにもなり得るのです。
ですから、私たちも区別しなければなりません。
そのような聖書理解こそ、真にキリスト目的的アプローチ(Christotelic approach)に基づいた聖書理解であるはずです。
●終わりに
上記から言えることは、KFさんが、聖書の教えに関して誤った概念を広めているということです。
無意識のうちに、また良かれと思ってそうしておられるのだと思いますが、解釈と適用を混同しておられることは否めません。
SNS上で不特定多数の人々に対して、解釈と適用を取り違えた誤解を流布することは、果たしてキリストの愛に根差した行為といえるでしょうか?
本当にキリストの愛を実践されたいと思われるのなら、そのような行為はおやめになるべきだと思います。
終わり