ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

女たちがイエスの墓に着いたとき、墓は開いていたのか閉じていたのか? マタイ28:2とルカ24:2

 
「聖書の現象」の記事です。
 
「聖書の矛盾」という動画835から、記事のタイトルと同じ問題が出題されています。
 
 私には特に問題があるように思えませんが、
 
 懐疑論者から見ると、マタイの箇所だけ、女たちが到着したとき、まだ墓が閉まっていたと思えるようです。
 
 
文法的観点からの検証
 
マルコ16:3~4
彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
 
ルカ24:1~2 
週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
 
ヨハネ20:1 
さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
 
 
 便宜上、マタイ以外を先に並べました。

 原文の文法上の視点から、説明をしていきます。
 
 マルコの「すでにころがしてあった」の部分は、完了形で書かれています。
 
 ですから「すでに」をつけることで、動作が完了していることを明確にして訳出したのは、良訳だと思います。
 
 また、ルカの福音書の「ころがしてあった」も完了形で書かれています。
 
 ですから、わかり易く訳せば、「すでにころがしてあった」ということになります。
 
 ヨハネの「取りのけてある」も完了形で書かれているので、「すでに取りのけてあった」ということになります。
 
 以上から、女たちの到着よりも、石の移動が先に起こったことは確かでしょう。
 
 
マタイ28:1~2
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。2 するとカイ+ホラオー、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、カイ石をわきへころがしてカイその上にすわったからである。
 
 
 問題となるのはマタイの箇所で、完了形の動詞はどこにも使われていません。
 
 その代わりマタイは、ほかの福音書が伝えていない地震のことを詳しく書いています。
 
 2節で(カイ+ホラオー)とした部分には、並列を意味する「カイ」という接続詞と、
 
「見よ」を意味するホラオーの過去形が使われています。
 
 この部分を詳訳すると「そのとき、見よ」ということになり、
 
 地震が起きたことに読者の注意を強く引き付けようとしているマタイの特別な意図がはっきりと見えます。
 
 確かに、女たちの到着と地震同時であったように取れますが、だからといってマタイは、「墓が閉じていた」とは書いていません
 
 マタイは、出来事の時系列的順番よりも、地震やその後の一連の出来事にフォーカスしたかったのです。

 出来事の時系列的順番よりも、自分が伝えたいことを優先するのはマタイの特徴ですので、その点は文学的な技法の問題として理解すべきだと思います。

 他の福音書と強調点や技法が異なっていることを汲み取るなら、この違いをもって矛盾しているとは言えないと思います。

 
 終わり