信仰義認は後代の発想か? キリスト教進歩主義の自己矛盾
私は、ののしり合うような論調の記事は書きたくないのですが、今回のKFさんのツイートは、
中傷の対象が信仰義認という救いの根幹に関わる教理であるため、あえて反論しようと思います。
KFさんは、次のように言っています。
羊と山羊を「そのまま」解釈すればプロテスタント原理主義が大好きな陳腐な二元論的信仰義認が完全に崩れるから、ルター様の時代錯誤的解釈を守るのに必死なのがめちゃめちゃ分かる。でも見てるとマジで格好悪い。それで聖書解釈が自分たちの専売特許のように振舞う。彼らの時代はもう終わり。
(強調はブログ主)
●検証
私が今回、取り扱いたいのは、KFさんの「ルター様の時代錯誤的解釈」という発言です。
KFさんは、あたかも信仰義認がルターのオリジナルであるかのような言い方をしていますが、
信仰義認は、初期の教父たちも教えていた歴史的教理で、ルターのオリジナルでもなければ、「時代錯誤的解釈」でもありません。
その証拠として、以下に教父たちの言説を挙げたいと思います。
神が「あなたの子孫は天の星のようになる」と約束したからには、イスラエルの他の部族も、小さな栄光すら受けることはできません。
それゆえ、これらの者たちが高い誉れを受け、偉大な者とされたのは、自分たちのためではなく、自分たちの行いによるのでもなく、自分たちの功績による義のゆえでもなく、主の御心のわざによるのです。
その信仰により、全能なる神は、初めからすべての人を、義と認めてこられた。その神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。
ANF: Vol. I, The Apostolic Fathers, First Epistle of Clement to the Corinthians, Chapter 32.
Fathers of the Church, Vol. 82, Homilies on Genesis 18-45, 27.7 (Washington, D.C.: The Catholic University of America Press, 1990), p. 167.
ローマ10:3の注釈:「神は信仰によってのみ、義とお認めになる。」
In Epistolam Ad Romanos, Caput X, v. 3, PL 30:692D.
では、働きのない人はどうなるのか(ローマ4:5)。…人が、不敬虔な者を義と認める方を信じるとき、その信仰が信者の義と見なされる。
ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを告げているとおりである(ローマ4:5~6)。これは如何なる義であろうか。信仰の義である。善行が(義認に)先行するのではなく、善行は義認の結果なのだ。
John E. Rotelle, O.S.A., ed., WSA, Part 1, Vol. 11, trans. Maria Boulding, O.S.B., Expositions of the Psalms 1-32, Exposition 2 of Psalm 31, (Hyde Park: New City Press, 2000), p. 370.
*引用元の論考には、上記以外にも多数の事例が挙げられています(英語)。
●自己矛盾
教父らの言説により、信仰義認が歴史的教理であることは明白ですが、KFさんの発言に見られる自己矛盾も指摘しておこうと思います。
地獄なんてないさ
地獄なんて嘘さ
寝ぼけた人が
見間違えたのさ〜
地獄なんて嘘さ
寝ぼけた人が
見間違えたのさ〜
*****
このように、KFさんは地獄の存在を否定しています。
「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」(41節)
「この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいる」(46節)
KFさんは、山羊に例えられている人たちが「永遠の火」や「永遠の刑罰」に入れられるという部分も、「そのまま」解釈すべきです。
それができないなら、前出のツイートは、ご自分の混乱ぶりを露呈する発言以外の何ものでもありません。
●あとがき
終わり