1コリント6:9のアルセノコイタイというギリシャ語は、本当に同性愛者という意味?
この記事は、ゴット・クエスチョン・ミニストリーズの「Does the Greek word arsenokoitai in 1 Corinthians 6:9 really mean ‘homosexuals’ or something else?」の私訳です。
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「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者…はみな、神の国を相続することができません。」
つまり、偶像崇拝や姦淫、同性愛などを行いつづけ、悔い改めていないにもかかわらず、自分は天国に入れると考えている場合、その人は自分自身を欺いているということです。クリスチャンは、そのような罪から救われているのです。
ある人たちは、聖句に列挙された他の罪と同性愛を、同等に取り扱わない解釈をしています。
その人たちは、「男色をする者」という表現は曖昧だと言い、同性同士の性行為を罪に定めるべきではないと主張します。
この訳し方に反対する人たちは、アルセノコイタイは同性愛関係を指すものではなく、虐待や威圧、不貞を行っている人のことだと主張します。
その人たちは、アルセノコイタイという言葉は、愛に基づいた真実な同性愛関係を指すものではないと言います。
アルセノコイタイは合成語で、男性を意味するアルセノーと、寝床を意味するコイタイで構成されています。
この2語を合わせると、「男性の寝床」という意味になります。つまり、この言葉は、「男性だけの寝床」あるいは「男性の用の寝床」を使用する人のことなのです。
ですから実のところ、1コリント6:9の意味を理解するのに必要な情報は、これで全てです。
結論として、アルセノコイタイという言葉は、同性愛者を指しています。この言葉は、男性と寝床につく男性のことを指しており、同性同士の性行為に従事する人たちを指しています。
この聖句は、同性愛関係を受け入れるべきだという考えをほのめかしてすらいません。また、誓いを立てた男同士の関係や、「愛」の存在についても述べられていません。
同性愛行為が断罪されているのは、金銭的な搾取や虐待が絡んでいるからだという考えも、こじつけであってこの箇所に基づくものではありません。
一つの聖句の中で、「男娼となる者」と「男色をする者」という2つの言葉を組み合わせることにより、パウロは、能動的な同性愛行為と受け身的な同性愛行為の双方を、巧みに網羅しています。
この点において、神の言葉に私的解釈を施してはなりません。同性愛は、間違った行為です。それは過去においてもそうでしたし、現在や未来においても同じです。
ほんの2節先の、1コリント6:11にはこうあります。
「でした」という表現は、「同性愛クリスチャン」は神にとって受け入れ可能だとする概念を否定します。
神の恵みによって人生が変えられ、コリント人たちの新しい人生は、過去の生活とは対照をなすものとなったのです。