NTライトの義認理解
この記事では、ライトが主張する義認について考えます。
●ライトの義認論
まずライトは「救いの性質と範囲」について語り、欧米の多くのクリスチャンは、救いの意味を「死んだら天国に行くこと」だと考えているが、それでは「不十分/inadequate」だとします(P10)。
そして「救いとは神によるこの世界からの救済ではなく、この世界そのものの救済*」だと述べます(同)。
*つまりライトにとって、救いというのは個人的なものではなく、集団的なものだということです。
次に、救いの手段は、信仰と聖霊の働きによるとした上で、「重要な点は義認の意味である」と切り出します。
そして「一部のクリスチャンは、義認と救いが、ほぼ置き替え可能であるかのような使い方をしているが、これは聖書そのものに対して明かに不忠実(untrue)である*」とライトは述べます(P11)。
*untrueという言葉は、「偽りの、不信実な」という意味もあるので、ライトの義認観が、一般的な福音主義のそれとは大きく異なっていることを示しています。
このすぐ後でライトは、自身の義認理解を説明します。
「第三に、パウロの義認の教理は、神の法廷を意識している」と、ライトは言います。
「神は裁判官として、イエス・キリストを信じる者たち『の利益となるように/in favor
of』、その者たちの罪を帳消しにするのだ」とします。
改革派神学においても、義認が法廷用語であることは理解されていますが、ライトの捉え方は改革派のそれとは違うと主張し、
「第四に、パウロの義認の教理は、終末論と結びついてる」とライトは述べます。
一つは「神が全世界を正しいと認め、ご自分の民を死から甦らせる最後の義認」であり、
もう一つは「現在の義認/the present justification」だとし、人々は現在の義認の中で、最後の義認の瞬間を待ち望むのだと述べています*(同)。
*つまりライトにとって、義認は2段階で起こるということです。こう考えた場合、信者は地上における努力によって、最後の義認に向けて自分の義を獲得しようと考えるようになると警鐘が鳴らされています。
●義=アブラハム契約への加入権
ライトが、義認を契約と関連づけている点については、上述の説明の「第二」の部分で述べられているとおりですが、
私が最も問題だと思う点は、聖書における「義」というテーマを、ライトが「契約の加入権」に置き換えている点です。
ブルーで強調した部分は、義が置き換えられている部分で、茶色はその日本語訳です。
ピリピ3:9
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
And that I may be discovered in him, not having my own covenant status (私自身の契約上の身分)defined by Torah, but the status which comes
through the Messiah’s faithfulness: the covenant status from God (神からの契約上の身分)which is given to faith.
ローマ10:4~6
キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
The Messiah, you see, is the goal of the law, so that covenant membership
may be available (契約加入権が入手可能になるように)for all who believe. Moses writes, you see, about the covenant membership defined by the law(律法で定義づけられた契約加入権), that “the person who performs the law’s
commands shall live in them.” But the faith-based covenant membership(信仰に基づいた契約加入権) puts it like this:” Don’t say in your heart,
●検証
「義=アブラハム契約への加入権」としてしまうことで、何が問題になるのでしょうか?
クリスチャンになるということは、確かにアブラハム契約に加えていただくことですが、ライトの概念には重大な欠点があります。
それは、人間の罪に見られる、神に対する倫理的悪質性がぼやかされてしまうことです。
正しさ、正義。神との関係における正しさ。神は本質的に無限に義なる存在である。
この説明から、義という概念が、神に関する倫理的価値観であることがわかります。
神が倫理的に正しい方である一方、私たち人間は罪深い存在です(ローマ3章)。
神が無限に正しいということは、私たちとの倫理的格差は無限であるということです。
この無限の倫理的格差が、キリストの贖罪を信じる信仰を通して、完全に埋められてしまう、それが義認です。
ライトのように義という概念を変更してしまうと、この倫理的な逆転の恵みが薄められてしまうのです。
第二の問題点は、翻訳上の誤りです。
「神の律法と人の定めた基準に合うこと、またそれに従って生活すること」
この点は、次の箇所を見るとはっきりわかります。
ローマ4:6~8
ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」
上記の箇所から、パウロが言うところの「義」というのは、神が「罪を認めない状態」を意味していることがわかります。
このように、パウロが言うところの義には、倫理的正しさという意味合いがあります。
一方、ライトによる義の定義は、契約への加入権ですから、パウロの義の定義とは異なります。
イスラエルの民の中には、契約加入権は持っていても、義ではない者が大勢いました。
罪を犯したからといって、契約加入権がなくなるわけではないからです。
しかし、僅かでも罪を犯せば、倫理的正さは損なわれます。
さすがのライトも、この箇所の訳文には「契約の加入権」とか「契約上の身分」という表現は使っていません。
We see the same thing when David speaks of the blessing that comes to someone whom God calculates to be the right apart from works:
Blessed are those whose lawbreaking is forgiven
And whose sins have been covered over;
Blessed is the man whom the Lord will not calculate sin.
キングダム新約聖書のローマ4:6~8
「the right」(正さ)と訳されている部分は、義を意味するディカイオシュネーです。
すなおに「righteousness/義」と訳せば済むことですが、ライトはあえてその言葉を避けています。
この箇所のディカイオシュネーを「契約の加入権」と訳してしまうと意味が通らないので、苦し紛れに「正さ」と訳したのでしょう。
こういったところに、ライトの主張の矛盾点が現れていると思います。
彼の考え方が、パウロの神学と異なっていることの証拠です。
●おわりに
義認に関する従来の福音派の理解は、間違っていません。
パウロの神学を見誤っているのは、ライトとのほうです。
彼は高名で立派な学者ですが、だからといって、彼のすべての主張が正いことにはなりません。
すべてのことを見分けて、本当によいものを堅く守りましょう(1テサロニケ5:21)。
終わり