NTライトのNPPに対する単純な疑問(短編)
NTライトの主張に問題のあることが容易にわかる、とてもシンプルな内容です。
●問題点
前回の記事にも書きましたが、
Some Christians have used terms like justification and salvation as though they were almost interchangeable, but this is clearly untrue to Scripture itself.
一部のクリスチャンは、義認と救いが、ほぼ置き替え可能であるかのような使い方をしているが、これは聖書そのものに対して明かに不忠実である。
(引用終わり)
しかし、ライトの言葉とは裏腹に、当のパウロは、義認と救いを置き換え可能な言い方で述べています。
A)信仰による義認
ローマ1:17・口語訳
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
ローマ3:28
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
ローマ5:1
B)信仰による救い
エペソ2:8
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
使徒16:31
1コリント1:21
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
これらの箇所は、どちらも「信仰によって」という点で共通しています。
Aの箇所では、義認は信仰によることを教えており、
Bの箇所では、救いが信仰によることを教えています。
そしてパウロは、義認と救いの関係について次のように教えています。
ローマ10:10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
このローマ10:10の原則を、AとBの箇所に適用するなら、義認と救いが置き換え可能であることは明らかです。
それに加えて、ローマ10:10は、ライトが「最後の義認」*と呼んでいるものがまったく架空の概念あることを教えています。
というのは、この箇所を原文で見ると、使われている動詞がすべて現在形だからです。
つまりパウロは、義認が終末に起こる話などまったくしておらず、現在における義認と現在における救いの話をしているのです。
今、キリストを信じ告白するなら、今、義と認められ、今、救われるとパウロは言っているのです。
ライトの言う義認は2段階で起こるもので、「最後の義認」は終末の裁きの際に起こるものですから、
パウロがここで語っていることとは、辻褄が合いません。
パウロの頭の中では、義認と救いは明らかにオーバーラップする出来事であり、連続して起こる出来事なのです。
ここまで聖書が、義認と救いの近似性、連続性、不可分性を明示しているにもかかわらず、
「聖書そのものに対して明かに不忠実」と言い切ってしまう学者の説を、
どうして世界のクリスチャンの方々は信じてしまうのでしょうか?
私には、皆目理解できません。
例えば、次のブログを見ると、ライトの信奉者が、如何にたくさんいるかがわかります。
この記事の最後を見ると、2017年9月19日現在で「拍手」が18件、「いいね!」が42件もあります。
キリスト教関連のブログ記事で、これだけ多くの支持を受けるものは珍しいと言えます。
それだけ多くの人が、ライトを支持しているということです。
しかしこれらの方々は、ライトが書いてることと、聖書に書かれていることを、どこまで比較できているのでしょうか?
正しく比較できているのなら、ライトを支持するわけがありません。
間違いを触れ回ってしまう学者も問題ですが、そういう学者を信じてしまう方々が世界中に大勢いらっしゃるのも困りものです。
しかし、ライトの誤りに気づいている人も大勢います。
例えば、Justification: God's Plan and Paul's Visionでネット検索すると、上位のほとんどが批判的な書評です。
これは、ライトの義認論が如何におかしな概念であるかを示しています。
NTライトや彼を盛り立てる周辺の人々によって乗せられている日本のクリスチャンたちも、早く間違いに気づいて聖書に立ち返って欲しいものです。
近年、NPP(New Perspective on Paul)という言葉が独り歩きしていますが、新しい学説を鵜呑みにするか、精査の上で聖書を信じるかが問われているのだと思います。
終わり
*「神が全世界を正しいと認め、ご自分の民を死から甦らせる最後の義認」
*関連記事:信仰義認は後代の発想か?