ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

患難前携挙説の「携挙の切迫性」は聖書的か?

 
 患難前携挙説は、しばしば携挙の切迫性を強調します。
 
 例えば、先頃のクリスチャン・トゥデイの記事で、中川健一先生が切迫性を強調しています。

 以下にその部分を引用します。

 
中川氏自身は患難期前携挙説の立場だが、他の説についても時間をかけて説明しつつ、それぞれに対する疑問点などを聖書から指摘した。
 
中川氏がそこで特に強調したのは、「携挙が起こる時期は誰にも分からないが、携挙は今すぐにでも起こり得る」ということ。
 
中川氏はこれを「imminent(差し迫った)」という英単語で説明し、「携挙が『imminent』であることを理解するなら、実生活は大きく変化する。
 
携挙を迎えるための準備は、日々キリストに従って歩むことだ」と伝え、最後に次のように語って講演を締めくくった。
 
引用元:ネット時代に進むユダヤ人伝道と携挙のタイミング 第8回再臨待望聖会
 
                 ***
 
 患難前携挙説で言う「切迫性」は、聖書を見る限り、携挙の前に起こる主要な出来事はない、という前提の上に成り立っています。

「今すぐにでも起こり得る」というのは、そういう意味です。
 
「切迫性」に関するこの理解は、果たして正しいのでしょうか?
 
 
切迫性の定義
 
 まず初めに、「切迫性」の定義について確認しましょう。
 
 聖書が言う切迫性と患難前携挙説が言う切迫性では、定義が同じでしょうか?
 
 
マタイ243942
39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
 

 主イエス42節で、紛れもなく携挙(あるいは再臨)の切迫性(imminency)を語っています。
 
あなたがたは…主がいつ来られるか、知らない」という言葉は、明らかに切迫性を示す表現です。
 
 しかし、ここで主は、「携挙/再臨の前兆となる出来事はない、それゆえ今すぐにでも起こりうる」という意味で言っているでしょうか。
 
 実際は、そう言っていません。

 これよりも前の話の中で、前兆となる多くの出来事が起こると言っておられます。
 
 一例として、29節の天変地異があります。
 
「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」
 
 このような出来事があれば、世界中のクリスチャンが終わりの時が近づいたことに気づきます。
 
 にもかかわらず主は、「人の子は、思いがけない時に来る」と言っています(44節)。
 
 つまり、主が言うところの切迫性は、特定の出来事の兆候となる別の出来事が何もないという意味ではないということです。
 
 数々の前兆が見られても、「人の子は、思いがけない時に来る」と言うのが主が言われる切迫性です。
 
 このことからわかるのは、主が言われる切迫性は、患難前携挙説が言う切迫性と定義が違う、ということです。
 
 言葉で表現するなら、次のようになるのではないでしょうか。
 
 
主イエスの切迫性=意外性思いがけない時) 
    vs  
患難前携挙説の切迫性=緊急性(今にも起こり得る)
 
 
 このように、聖書の切迫性と患難前携挙説の切迫性では、定義が違うことがわかります。


内的証拠
 
 上記の違いを示す内的証拠があります。
 
 
2テサロニケ213
さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。
まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
 
 
 患難前携挙説から見た場合、「イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められること」は、携挙を指します。
 
 しかし、この出来事がいつ起こるかについて、パウロはこう言っています。
 
「まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです」(23)。
 
 つまり、パウロの思いの中では、イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められること」=「主の日」=再臨なのです(ゼカリヤ14:1~4)。
 
 しかし、患難前携挙説の信奉者にとっては、この箇所は受け入れがたい箇所です。
 
 なぜなら、携挙の前に反キリストが台頭することが語られており、患難前携挙説の「切迫性」の概念が打ち砕かれてしまうからです。

 このように、患難前携挙説の切迫性は、聖書の言う切迫性と食い違っています。
 
 
●あとがき
 
 私自身、以前は患難前携挙説の信奉者でした。
 
 ですから、反省も含めて提言します。
 
 患難前携挙説の信奉者は、パウロからの第一の手紙の内容を誤解しているという点で、テサロニケ教会の信者と似ています。
 
 テサロニケの信者はすでに再臨が起きたと誤解しましたが、患難前携挙説の信奉者は、携挙が今にも起こり得ると誤解しています。
 
 しかし携挙は、「まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ」起こりません。
 
「患難期や大患難期を通過するのは怖いから嫌だ」という方は、教理の理解以前に、主ご自身や聖書の真理に対する全幅の信頼に欠けているという問題があると思います。
 
 聖書の終末記事は、信者の信仰を整えるために予め書かれたものです。
 
 しかし患難前携挙説は、その意図を妨げる負の要因を含んでいます。
 
 終末に向けて備えを受けるため、患難前携挙説を考え直しましょう。
 
 終わり