ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

EPサンダースとジェイムズ・ダンに関する疑問

 
 かの有名な、THE NEW PERSPECTIVE ON PAULという論文を読んでみました。
 
 著者はジェイムズ・ダンといい、EPサンダースやNTライトと並ぶ、NPP御三家の一人です。
 
 今や有名になった「パウロに関する新しい見方」(NPP)というフレーズは、この論文に端を発しています。
 
 ダンは論文の中で、従来の信仰義認に疑問を投げ掛けた上で、次のように論じます(p3)。

 
 しかし、サンダースは、パウロ時代のパレスチナユダヤ教に関して、(従来と)異なる見解を構築した。
 
 当時のユダヤ教関連文献のほとんどを、大量に取り扱った結果、(従来と)異なる構図が現れてきた。
 
 特にサンダースは、十分な根拠を挙げて、次のことを主張した。
 
 1世紀のユダヤ人にとって、神との関係は契約を土台として既に確立しており、
 
 その確立した関係が、ユダヤ人という民族的アイデンティティーやユダヤ教理解の基盤となっていた。
 
 律法はその契約の表明として与えられたもので、契約によって確立した関係を維持するための規定であった。
 
 それゆえ義という概念も、この関係に基づいて理解されなければならない。
 
 すなわち、ユダヤ教における律法遵守は、契約に入るための手段でもなければ、神との特別な関係を獲得する手段でもなかったということである。
 
 律法の遵守は、あくまで神のとの契約関係を維持するためのものだったのだ。
 
 この結論からサンダースは、「契約に基づく律法遵守主義」と呼ばれる、1世紀のパレスチナユダヤ人を特徴づけるキーフレーズを導き出す。
 
 サンダースはこのキーフレーズを、次のように定義づける。
 
 契約基づく律法遵守主義とは、神と人の関係は契約に基づいて確立されており、その契約は、戒めに従うという人間の応答を要求している。
 
 一方で契約は、戒めの違反に対する贖いの手段を提供している。
 
 律法の遵守は、契約における人間の立場を維持するものであって、神の民としての立場を獲得するためのものではない。
 
 ユダヤ教における義という言葉は、選びの民として地位を維持することを意味する。

                                (強調はダン)
 
*過去記事においては「契約に基づく律法遵守」と訳しましたが、「律法主義」との対比のために「契約に基づく律法遵守主義」と改めました。なお、神学会における訳語は「契約的法規範主義」です。ブログ主としては、自分の訳語のほうがわかりやすい上に的も得ていると思うので、神学会の訳語は敢えて選択しません。
 
 
●疑問点
 
 サンダースによるこの見解は、ダンだけではなくNTライトも、理論構築の土台にしています。
 
 私が問題視するのは、サンダースが「ユダヤ教関連文献のほとんど」を取り扱っているとしても、
 
 それはあくまで、こんにち入手可能な文献のほとんどであって、当時は他の文献も存在していたかもしれないということです。
 
 そして、サンダースが入手できなかった文献の中には、「契約に基づく律法遵守主義」と異なるユダヤ人たちの律法理解が書かれていた可能性がある、ということです。
 
 実際、マタイの福音書には、「契約に基づく律法遵守主義」と明らかに対立する律法理解が記録されています。
 
 
マタイ19:1620
すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
エスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
 
 
 マタイによれば、金持ちの若者による律法遵守の目的は、「永遠のいのちを得るため」でした(16節)。
 
 主イエスも若者の願いに理解を示して、「いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい」と言っておられます(17節)。
 
 言うまでもなく、この会話のテーマは「律法遵守による救い」です。
 
 それゆえ、このやり取りから、1世紀のユダヤ人にとって、「律法遵守による救い」という概念は、特別なものではなかったことがわかります。

 これは、とりもなおさず、サンダースの「契約に基づく律法遵守主義」とぶつかります。

 つまり、1世紀のユダヤ人の中には、少なくともこれら2種類の救済観が存在していたということです。
 
 南東部バプテスト神学校などで新約聖書学と聖書神学を指導してきたチャールズ・クォールズ博士は、

ニュー・パースペクティブと第二神殿期のユダヤ教における贖いの手段」という論文の中で次のように述べています。
 
 
 新約聖書学者たちは、第二神殿期ユダヤ教が神学的に一様ではなかったことを、ますます認識しつつある。
 
 正確さを期するなら、第二神殿期ユダヤ教諸説(複数形)と言うべきであって、当時のすべてのユダヤ人が、単一の救済観を共有していたと決めてかかるべきではない。(p40)
 
 そして、クォールズ博士は、「恐らくミシュナーにおける最も体系的な救済論の言及」として、次のようなラビの教えを引用しています。
 
 
 ラビ・アキバはミシュナー・アボス3:16で、「世界は義によって裁かれるが、すべての者は、善と悪の行いのどちらが多いかによって裁かれる」と教えている。…
 
 このようにラビ・アキバは、個人の永遠の運命が、個人の行いにおける善悪の優位によって決定されると教えていた。(p41)

 つまり、現存する資料によっても、1世紀のユダヤ人の律法理解には多様性があったことが、判明しているということです。

 言うまでもなく、NPP学者らの主張の根拠には欠陥がある、ということになります。
 
 
●あとがき
 
 福音主義神学会でNPPを学ばれた金井望先生は、「現代のパウロ解釈を考える」(福音主義神学会 西部部会 秋季研究会議 の感想)の中で、次のように述べておられます。
 
 
ルターは「罪の赦し=神の怒りから逃れる方法」に関心があって、「信仰による義」「虚構的な転嫁された義」の発見によって、解決を得た。しかし、それはパウロの関心事では無かった、というのがサンダースの主張です。
 
しかし、それは正しくない。この点に関して、サンダースはパウロやルターを全く誤解している、と私は思います。
 
ルターが個人的に「信仰義認」の経験をしたのは事実です。けれども、彼が「信仰義認」を掲げて闘ったのは、ローマ教会のシステムでは人々が救われないからです。ルターの関心・目的意識は、人々の実質的な救済にあったのです。
                             (強調はブログ主)

金井望:日本イエス・キリスト教団神戸大石教会牧師、日本福音主義神学会会員、カナイノゾム研究室を運営、NTライトFB読書会に参加
 
                  ***
 
 EPサンダース、NTライト、ジェームズ・ダンなど、NPP学者らが根拠とする文献を書いたユダヤ人と、
 
 主イエスパウロが相手にしていたユダヤ人は、別々の救済観・律法理解を持っていたと考えるべきです。
 
 その場合、「契約に基づく律法遵守主義」に基づいて従来の信仰義認を再解釈するNPPの主張は、的を外しているのです。
 
 終わり