キリストの「身代わり」は誤りなの? パート2
最近、Drルークがこれに反論されました。
しかし、その反論で引用されているコメンタリーは刑罰代償説を支持しています。
そのためこの反論は、自らの墓穴を掘った結果になっています。
●英文解釈の誤り
The preposition used in this clause (ὑπέρ) does not necessarily convey the idea of vicarious suffering, as ἁντί (Matthew 20:28; Mark 10:45; comp. also 1 Timothy 2:6) does; it means simply “in behalf of,” leaving the character of the relation undetermined; here the context implies the particular relation of substitution (comp. Romans 5:6; also St. Peter’s description of our Lord as “the Just,” in Acts 3:14).
“υπερ”は”αντι”のような「代理としての苦難」の意味は必ずしもなく、単に「~のために」の意味であり、その関係性は定義されていない。が、文脈からみると「置き換え」の意味が示唆される・・・と、私が指摘するとおり、「身代わり」は意訳であることを指摘している。
Drルークによると、このコメンタリーは彼の主張を支持しているそうです。
しかし実のところ、このコメンタリーは刑罰代償説を支持する内容です。
言い変えると、Drルークの英文理解が間違っているということです。
私の主観的判断ではないことを示すために、客観的資料を提示しつつ、その誤りを指摘したいと思います。
まず初めに、注解者の結論から見ていきます。
英文の下に私ダビデによる私訳をつけますので、Drルークの訳文と比較してみてください。
「here the context implies the particular relation of substitution 」
「ここでは文脈が、代理に関する特定の言及を暗示している」
「文脈からみると「置き換え」の意味が示唆される」
まずDrルークは、the particular relationをまったく訳出していません。
下記にあるとおり、relationには「言及」という意味があります。
make relation to ... …に言及する.
次にDrルークは、substitutionを「置き換え」と訳しています。
必ずしも誤訳とは言えませんが、ご自分に都合の良い訳語をつけていることは否めません。
ウエブリオが示す通り、一般的な訳語は「代理」です。
また、ここで注目しておくべきことがあります。
それは、substitutionという言葉が神学的術語でもあることです。
Vicarious Substitution
“substitutionary atonement” or “penal substitution.”
日本語の「刑罰代償説」は、英語ではいくつかの異なる表現をとっています。
上記にそのうちの一部を例示したとおり、Vicarious Substitution、penal substitutionなど、
substitutionが神学的術語としてそのまま使われています。
ですからsubstitutionは、「置き換え」ではなく「代理」あるいは「代償」とすべきです。
これらの点を考慮して、結論部分を訳すと次のようになります。
「ここでは文脈が、代理/代償に関する特定の言及を暗示している」
注解者が「文脈」と呼んでいるのは、1ペテロ3:18の「キリストも一度罪のために死なれました」という部分です。
この一文に「代理/代償」に関する言及が暗示されている、と注解者は述べています。
要するに、この注解者は刑罰代償説を支持しているのです。
***
次に、英文の前半部分を見たいと思います。
Drルークは、the relationを「関係性」と訳しています。
しかし先述したとおり、この言葉には「言及」という意味があります。
英文の文脈を考慮すると、このthe relationのは「言及されている言葉」とすべきです。
また、Drルークはthe characterを完全に無視していますが、この言葉も訳出するべきです。
the character of the relationの意味は、「言及された言葉の特徴」となります。
これらのことを含めると、コメンタリーの前半の訳は次のようにすべきです。
このクローズで使われている前置詞(ヒュペル)は、アンティ(マタイ20:28、マルコ10:45)が伝えているような身代わりの苦しみという概念を必ずしも伝えていない。ヒュペルは端的に「~のために」の意味であり、言及された言葉の特徴は定義していない。
***
次に、Drルークは訳出していませんが、注解者がマタイ20:28とマルコ10:45を挙げていることに注目してください。
注解者はそれらの箇所を示しながら、「新キリスト教辞典」と同じことを述べています。
以下にそれらの箇所を引用します。
マタイ20:28
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
マルコ10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
これらの箇所の「~のため」の部分にアンティが使われており、そのアンティに「~の代わりに」という意味があります。
それゆえ聖書は刑罰代償説を教えている、というのが注解者の云わんとしていることです。
つまり、この注解者は刑罰代償説を支持しているのです。
●あとがき
確かにこの注解者は、ヒュペルには身代わりの意味はないと言っています。
しかし、Drルークは注解者の意図を汲み取れておらず、自分の都合の良いように解釈しています。
注解者は、「キリストも一度罪のために死なれました」の脈絡における代償を認めており、
マタイやマルコの箇所を挙げて刑罰代償説を支持しています。
またペテロは、1ペテロ2:24でイザヤ書53章を引用しています。
イザヤはこの箇所で、メシアが人の罪を負うことを預言しています。
ですから、ペテロもキリストの身代わりの死を教えているのです。
1ペテロ2:24
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
終わり