ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

神・キリストの暴力的側面の否定は正しいのか?

 
 聖書の真理を選り好みする神学者がいることは、困りものだと思います。
 
 肉的に心地よい内容は字義通り受ける一方で、自らの価値観に反する聖書の真理は、人間的な知恵で歪めてしまうのです。
 
 リベラル陣営の神学者がそうしているならまだ理解できます。
 
 しかし、曲がりなりにも福音主義を標榜する神学者が、不特定多数のクリスチャンに事実と異なる主張を広めるというのはいかがなものでしょうか。
 
 私は、それは悪しき行為だと思いますので、検証ではなく批判をしようと思います。

 以下は、山崎ランサム氏のブログからの抜粋です。
 
 
ところが黙示録のキリストは世の終わりに現れて不信者を容赦なく滅ぼす戦士としてイメージされます。これは福音書に描かれている愛のメシヤとしてのイエスのイメージとどのように結びつけたら良いのでしょうか?「結局黙示録に描かれている神やキリストの暴力的な裁きは、ヨハネが批判している当のバビロン/ローマがしていることと変わらないのではないか?」という批判がなされることもあります。そのような理由で、黙示録を非キリスト教的文書として拒絶する人も存在します。これはどのように考えたら良いのでしょうか?
 
 
黙示録における暴力的な裁きの描写を象徴としてではなく字義通りに解釈することは、他の新約文書(特に福音書)の神観・イエス像と矛盾するばかりでなく、黙示録の中心的ビジョンである4-5章における神とキリストの描写とも矛盾します。そこではほふられた小羊であるキリストが天の王座にあって統べ治め、また礼拝を受けています。つまり、キリストは「ほふられた小羊として」世界を治め、裁かれるのですし、「ほふられた小羊として」あがめられるのです。「ほふられた小羊」つまり自己犠牲的な愛の姿はキリスト、そして神の本質的なアイデンティティであり、黙示録のすべてのイメージはそのレンズを通して解釈されなければならないのです。
 
 
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結局黙示録に描かれている神やキリストの暴力的な裁きは、ヨハネが批判している当のバビロン/ローマがしていることと変わらないのではないか?
 
 山崎ランサム氏は、この批判の言葉があたかも妥当であるかのような書き方をされています。
 
 しかし、ヨハネが批判しているのは、「エスのあかしと神のことばとのゆえに」聖徒たちの首をはねた邪悪な存在です(黙示録20:4
 
 そういった邪悪な行為を批判しないほうが、むしろおかしいのではないでしょうか。
 
 イエスさまご自身も、そういう行為を批判しています。
 
 
マタイ23:2931
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。
 
 
 一方、再臨のキリストが裁く相手は、サタンと一致して神に敵対する人たちです。
 
 神は悔い改めの機会を与えますが、彼らは悔い改めるどころか、神に対してけがしごとを言います
 
 
黙示録16:11
そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった
 
 
 イエスさまは、このような人たちを将来どのように扱うか、福音書の喩えの中ではっきりと語っておられます。
 
 
マタイ22:17
エスはもう一度たとえをもって彼らに話された。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
 
 
 7節で「滅ぼす」と訳されているアポルミーの最も代表的な意味には、「殺す」というものがあります。
 

Definition: (a) I kill, destroy

   意味:私は殺す、破壊する 
 
 
 ですから7節は、「王は怒って…その人殺しどもを殺し…」と訳しても何ら問題はありません。
 
 この喩えの「王」とは父なる神のことであり、ここに描かれている裁きはAD70年にエルサレムに実現したと言われています1
 
 
1 マッカ-サー・バイブル・コメンタリー、p1166
 
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黙示録における暴力的な裁きの描写を象徴としてではなく字義通りに解釈することは、他の新約文書(特に福音書)の神観・イエス像と矛盾する
 
 そんなことはありません。
 
 以下に挙げる福音書の厳しい譬えの数々は、むしろ黙示録で成就していると言えます。
 
 どれもみな、情け容赦のない暴力的な喩えばかりです。
 
 
ルカ19:2227・ミナの譬え
主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』
 
マタイ13:4042
ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
 
マタイ13:4950
この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
 
マタイ18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
 
マタイ21:4044
このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」
 
マタイ25:41
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ
 
 
●あとがき
 
 山崎ランサム氏の主張は正しくありません。
 
 神やキリストの厳しい側面、また暴力的な側面は、「特に福音書」の中にふんだんに見られるからです。
 
 これらの箇所は、神やキリストの正義や聖さを表しています。
 
 こういった神観・メシア観が気に入らないという理由で、そういった箇所を曲解することが神に喜ばれるはずがありません。
 
 山崎ランサム氏は、ご自分が神のことを思っているのか、人のことを思っているのかをはっきりさせるべきだと思います。
 
 このような主張をつづけるなら、神学者の立場を利用してキリストの邪魔をすることになりかねません。
 
 
マタイ16:23
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
 
 
 終わり