「火によるバプテスマ」と罪の性質 前半
ネット上を見ていますと、「火によるバプテスマ」の意味が混乱しているのがわかります。
典型的な事例は、以下のような解釈です。
バプテスマのヨハネが授けるバプテスマは、罪を清めるバプテスマでした。 しかしイエス・キリストの名によるバプテスマは罪を滅ぼすバプテスマです! なぜならイエスは全人類の罪を十字架に背負い、罪と死を滅ぼされたからです。 それはまさに罪の性質を焼き尽くす、聖霊の火によるバプテスマなのです。(強調はダビデ)
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上記の解釈には2つの問題点があります。
●罪の性質はなくなるのか?
まずは、この点を検証したいと思います。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
8節の「罪」は、原文で見ると単数形1で書かれています。
一方、9節の「罪」は複数形2で書かれています。
単数形の罪は、「罪の性質」を示しています。
一方、複数形の罪は、罪の性質があるために犯してしまう「個々の罪」を示します。
注
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上記の理解が正しいことは、次の箇所から確認できます。
ローマ6:3~14
7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。…
12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
上記の箇所の「罪」は、すべて単数形です(バイブル・ハブ参照)。
3節を見るとわかるとおり、この箇所はキリストを信じて救われている人について言及しています。
7節でパウロは、私たちが「罪」から解放されていると言っています。
しかし、これは、私たちの内から罪の性質がなくなったという意味ではありません。
12節では、体を「罪」に委ねるという行為、
13節では、手足を「罪」に捧げるという行為について言及されています。
もし「罪(の性質)」が消滅したのであれば、肢体をそれに委ねたり、捧げたりする可能性はありません。
ですから、このような警告を書くこと自体がナンセンスだということになります。
しかし実際には罪の性質が残っているために、パウロはこのように書いているのです。
14節も同様で、罪の性質が残っていることを前提にして書かれていることが、文脈からおわかりになると思います。
つまり、罪(の性質)は残っているものの、罪(の性質)が救われた人を支配することはない、というのがパウロの主張です。