「火によるバプテスマ」と罪の性質 後半
このことは、次の箇所からも明らかです。
ローマ8:10
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
この聖句の「罪」も単数形*です。
つまり、個々の罪はすでに十字架で完全に赦されているのです(ローマ8:1)。
ですから、「からだは罪のゆえに死んでいる」という箇所の「罪」が、個々の罪である可能性はありません。
つまり、この「罪」という表現は「罪の性質」という意味で、罪の性質ゆえに信者の体が死んでいる、とパウロは言っているのです。
罪の性質ゆえに体が死んでいるということは、人の中に罪の性質が残っており、それが肉体に今も影響しているということを物語っています。
●火によるバプテスマとは?
次に、火によるバプテスマの意味を考えます。
マタイ3:10~12
10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。
①ギリシャ語表現
αὐτὸς ὑμᾶς βαπτίσει ἐν πνεύματι ἁγίῳ καὶ πυρί
彼は あなたがたを 浸す(未来形)~の中に 霊 聖い と 火
訳:(キリストは)あなたがたを聖霊と火との中に浸すことになる
②前後の脈絡
10節
*斧が木の根元に置かれている
*良い実を結ばない木は切り倒される
*火に投げ込まれる
12節
*手に箕を持っている…「箕」は振るい分けに使う農具で裁きを暗示
*脱穀場をすみずみまできよめる…この世に対する徹底した裁き
*麦を倉に納め…信者は天国(神の国)に入れる
*殻は消えない火で焼き尽くす…「消えない火」=地獄の火→不信者は地獄に入れられる
これらの表現は、明らかに終末における裁きを示しています。
麦と殻を分けて別々のところに入れるという譬えは、「麦と毒麦の譬え」や「良い魚と悪い魚の譬え」の洗礼者ヨハネ・バージョンとも言えるものだと思います。
これをもって、信者のきよめと解釈するのは、いかがなものでしょうか?
完全な誤りだと言わざるを得ないと思います。
●余談
山岸登師は「マタイによる福音書註解」(エマオ出版)の中で、「聖霊と火とのバプテスマ」という箇所について、αὐτὸς ὑμᾶς βαπτίσει ἐν πνεύματι ἁγίῳ καὶ πυρί: を「聖霊によって、また火によってバプテスマする」と正確に訳すべきであるとしています。前置詞の「エン」が聖霊だけでなく、火にもかかると解釈しています。そのように訳すと、「聖霊によってバプテスマ」を授けられるということは、「火によってパプテスマ」を授けられることと同義だということになります。(強調はダビデ)
この強調したギリシャ語文法の解釈についても検証します。
山岸さんという方は、エン+名詞A+名詞Bという構造の場合、
意味的に、名詞A=名詞Bになるとおっしゃっています。
この考え方は正しいでしょうか?
正しいのであれば、聖霊=火ということになります。
ルカ7:17
この聖句も、エン+名詞A+名詞Bという構成になっています。
ἐν ὅλῃ τῇ Ἰουδαίᾳ περὶ αὐτοῦ καὶ πάσῃ τῇ περιχώρῳ.
エン 全体 冠詞 ユダヤ 関して 彼に ~と すべて 冠詞 周囲一帯
このように、一つのエンが「ユダヤ全土」と「回りの地方一帯」にかかっており、
エン+「ユダヤ全土」+「周りの地方一帯」という構造になっています。
では、「ユダヤ全土」と「回りの地方一帯」は同義でしょうか?
もちろん、違います。
「ユダヤ全土」と「回りの地方一帯」とでは地理的な位置が違いますし、広さも違う別々の土地です。
とても「同義」ということはできません。
このことからも、「聖霊」と「火」を分けて解釈すべきであることがわかります。
●まとめ
「火によるバプテスマ」というのは終末の裁きのことで、具体的には地獄の火の中に入れられる(浸される)ことを指しています。
聖霊のきよめの働きのことではありません。
終わり