「キリストにあって」の実感
特徴 その6
「キリストにあって」の実感
初期のクリスチャンたちのように、この第三の波の中にいる人々は「労する」という精神から解き放たれています。また罪の意識や宗教的な義務感からも解放されています。
新約聖書の書簡を見ると、パウロは、自分が開拓した諸教会に向かって、「聖徒たち」と繰り返しています(その教会がどういう問題に直面していようともです)。つまりパウロは、「キリストにあって」彼らをきよい存在として見ていたのです。また手紙の受け手側も、パウロが述べていることを明確に理解していたことがわかります。というのは、パウロは彼らを「聖徒たち」と呼ぶ理由に関して、くどくど説明してないからです。
この観念が第三の波の中で、回復しつつあることの証をみなさんに分かち合おうと思います。彼女は次のように語っています。
「私は子供の頃から、クリスチャンとして育てられました。この集会に参加するようになってから約1年たちました。ある時私は、キリスト教のラジオ番組を聞いていました。そして、ある歌が流れてきました。その歌は、自分がどれほど無価値な存在で、神を喜ばせるためにどれほど努力しなければならないかということを歌っていました。自分の義は何の役にも立たないのため、自分がどれほど霊性を引き上げなければならなかったかを歌っていました。私はふと我に帰り、あることに気付きました。それは、この歌の内容はもう自分には関係がないということです。私は新しい目を与えられ、『キリストにあって』自分を見ることができるようになったからです。何年もの間、私は自己価値の低さや罪の意識、そして罪責感に悩んでいました。でも、今はもうそういったものがすべて消え去りました。私には、もうそういうものがないのです。私は、主の愛の中でとても自由です。」
この姉妹がこう証をすると、みなが感化され、同じ流れの証をし始めました。素晴らしい光景でした。彼女は初代のクリスチャンたちと同じ霊的現実を体験したのだと思います。
もう一つ実例を付け加えます。2、3年前のことですが、あるオーガニックチャーチが面白い実験をしました。兄弟姉妹たちが二人組みになり、それぞれ丸2週間、街の組織的な教会に行ってみたそうです。そして、そこで聞いた説教を分析してみました。
みなが帰って来て結果を報告すると、次のような驚くべきことがわかりました。彼らが聞いてきた説教は、本質的にどれも同じ内容を含んでいました。こうです。「あなたが今していることだけでは、十分、神を喜ばせることはできません。今よりももっと何かをする必要があります。もっと聖書を読み、もっと祈り、もっと人々の役に立ち、もっと教会の集会に出る必要があります。努力の上に努力を重ねる必要があるのです。」
こんにち語られている説教の大半は、このような内容が根幹になっています。これでは(恵みではなく)義務の福音になってしまいます。
面白いことに、それらの教会は、未信者に対してはまったく異なるメッセージを語っていることがわかりました。このような感じです。「神は、ありのままのあなたを愛しています。あなたが何かをしたから、愛しているのではありません。神の愛は無条件の愛です。イエスはただあなたを愛していたから、あなたのために死んでくださいました。それ以上の理由はありません。あなたは、神を喜ばせることができるのです。あなたの善行など、何の役にも立ちません。しかしあなたがキリストを信じるなら、神はあなたをまったき者として受け入れてくださるでしょう。ですから今この時に、イエス・キリストを信じようではありませんか。」
ところがです。ひとたびそれらの人々がキリストを信じて救われると、「飴と鞭」の福音が割り込んでくるのです。こういう感じです。
「あなたは今やクリスチャンになりました。神を喜ばせるために、あなたがしなければいけないことをお教えしましょう。もっと努力が必要です。もっとできるはずです。もっと頑張らなければいけません。これこれこうしなければ、神を喜ばすことはできません。」
説教を聞くときに、誰もが気を付けるべき見分けのポイントはこれです。「私がいま聞いているのはイエス・キリストの栄光に関することだろうか、それとも、より良きキリスト者になるための必要条件だろうか。」後者は義務で作り上げた福音であり、律法主義であり、間違った木の実です。善悪を知る知識の木は、いのちの木のまがい物なのです。この禁断の木の実には、「善の知識」が含まれていることを忘れないでください。
新約聖書が語るところの良き働きとは、いのちが結ばれた結果、自然に枝から落ちて来るくだものにたとえることができます。同じようにクリスチャンも、神のいのちによって生きることを学ぶにつれ、自然な形で他の兄弟姉妹たちと一緒に良き働きをし始めるものなのです。
これに関連したことですが、牧師さんたちから、数え切れないほどのお手紙をいただきました。(その中の何人かは、最先端のムーブメントに関わっておられる方です。)牧師さんたちはこう語っています。「私の福音は役に立っていません。私は長年にわたり、神に仕えることを神としてきました。ですから私は、正直なところ神がわかりません。神の愛も神による受容も、本当の意味では知らないのです。」
こう語る方々の大半は、奉仕に対する燃え尽き症候群に陥っています。また驚くなかれ、神のいのちによってではなく、自分の肉の力で神に仕えてきたことに気付くに至ったと告白しています。
あなたも私も、自分の力でクリスチャンとして生きることはできません。自分の力で神に仕えることはできません。神学を知っていても、正しい教義に従っていても、善行と慈善に励んでも、それらはイエス・キリストによって生きることに取って代わるものではありません。クリスチャンとして生きるということは、神の責任によってのみ成り立つことです。クリスチャン人生を生きることができるのは、ただキリストおひとりだけです(ヨハネ15:5、ガラテヤ2:20)。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」 ガラテヤ2:20
私たちは、教会というコミュニティーの中で、兄弟姉妹と共同で、キリストによって生きるということを学び、兄弟姉妹と共同で、神に仕えることを学ぶのです。ひとりぼっちの孤立したクリスチャンとしてではありません。こんにち、このことを体験するクリスチャンが劇的に増加しつつあるのです。
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「キリストにあって」の実感
初期のクリスチャンたちのように、この第三の波の中にいる人々は「労する」という精神から解き放たれています。また罪の意識や宗教的な義務感からも解放されています。
新約聖書の書簡を見ると、パウロは、自分が開拓した諸教会に向かって、「聖徒たち」と繰り返しています(その教会がどういう問題に直面していようともです)。つまりパウロは、「キリストにあって」彼らをきよい存在として見ていたのです。また手紙の受け手側も、パウロが述べていることを明確に理解していたことがわかります。というのは、パウロは彼らを「聖徒たち」と呼ぶ理由に関して、くどくど説明してないからです。
この観念が第三の波の中で、回復しつつあることの証をみなさんに分かち合おうと思います。彼女は次のように語っています。
「私は子供の頃から、クリスチャンとして育てられました。この集会に参加するようになってから約1年たちました。ある時私は、キリスト教のラジオ番組を聞いていました。そして、ある歌が流れてきました。その歌は、自分がどれほど無価値な存在で、神を喜ばせるためにどれほど努力しなければならないかということを歌っていました。自分の義は何の役にも立たないのため、自分がどれほど霊性を引き上げなければならなかったかを歌っていました。私はふと我に帰り、あることに気付きました。それは、この歌の内容はもう自分には関係がないということです。私は新しい目を与えられ、『キリストにあって』自分を見ることができるようになったからです。何年もの間、私は自己価値の低さや罪の意識、そして罪責感に悩んでいました。でも、今はもうそういったものがすべて消え去りました。私には、もうそういうものがないのです。私は、主の愛の中でとても自由です。」
この姉妹がこう証をすると、みなが感化され、同じ流れの証をし始めました。素晴らしい光景でした。彼女は初代のクリスチャンたちと同じ霊的現実を体験したのだと思います。
もう一つ実例を付け加えます。2、3年前のことですが、あるオーガニックチャーチが面白い実験をしました。兄弟姉妹たちが二人組みになり、それぞれ丸2週間、街の組織的な教会に行ってみたそうです。そして、そこで聞いた説教を分析してみました。
みなが帰って来て結果を報告すると、次のような驚くべきことがわかりました。彼らが聞いてきた説教は、本質的にどれも同じ内容を含んでいました。こうです。「あなたが今していることだけでは、十分、神を喜ばせることはできません。今よりももっと何かをする必要があります。もっと聖書を読み、もっと祈り、もっと人々の役に立ち、もっと教会の集会に出る必要があります。努力の上に努力を重ねる必要があるのです。」
こんにち語られている説教の大半は、このような内容が根幹になっています。これでは(恵みではなく)義務の福音になってしまいます。
面白いことに、それらの教会は、未信者に対してはまったく異なるメッセージを語っていることがわかりました。このような感じです。「神は、ありのままのあなたを愛しています。あなたが何かをしたから、愛しているのではありません。神の愛は無条件の愛です。イエスはただあなたを愛していたから、あなたのために死んでくださいました。それ以上の理由はありません。あなたは、神を喜ばせることができるのです。あなたの善行など、何の役にも立ちません。しかしあなたがキリストを信じるなら、神はあなたをまったき者として受け入れてくださるでしょう。ですから今この時に、イエス・キリストを信じようではありませんか。」
ところがです。ひとたびそれらの人々がキリストを信じて救われると、「飴と鞭」の福音が割り込んでくるのです。こういう感じです。
「あなたは今やクリスチャンになりました。神を喜ばせるために、あなたがしなければいけないことをお教えしましょう。もっと努力が必要です。もっとできるはずです。もっと頑張らなければいけません。これこれこうしなければ、神を喜ばすことはできません。」
説教を聞くときに、誰もが気を付けるべき見分けのポイントはこれです。「私がいま聞いているのはイエス・キリストの栄光に関することだろうか、それとも、より良きキリスト者になるための必要条件だろうか。」後者は義務で作り上げた福音であり、律法主義であり、間違った木の実です。善悪を知る知識の木は、いのちの木のまがい物なのです。この禁断の木の実には、「善の知識」が含まれていることを忘れないでください。
新約聖書が語るところの良き働きとは、いのちが結ばれた結果、自然に枝から落ちて来るくだものにたとえることができます。同じようにクリスチャンも、神のいのちによって生きることを学ぶにつれ、自然な形で他の兄弟姉妹たちと一緒に良き働きをし始めるものなのです。
これに関連したことですが、牧師さんたちから、数え切れないほどのお手紙をいただきました。(その中の何人かは、最先端のムーブメントに関わっておられる方です。)牧師さんたちはこう語っています。「私の福音は役に立っていません。私は長年にわたり、神に仕えることを神としてきました。ですから私は、正直なところ神がわかりません。神の愛も神による受容も、本当の意味では知らないのです。」
こう語る方々の大半は、奉仕に対する燃え尽き症候群に陥っています。また驚くなかれ、神のいのちによってではなく、自分の肉の力で神に仕えてきたことに気付くに至ったと告白しています。
あなたも私も、自分の力でクリスチャンとして生きることはできません。自分の力で神に仕えることはできません。神学を知っていても、正しい教義に従っていても、善行と慈善に励んでも、それらはイエス・キリストによって生きることに取って代わるものではありません。クリスチャンとして生きるということは、神の責任によってのみ成り立つことです。クリスチャン人生を生きることができるのは、ただキリストおひとりだけです(ヨハネ15:5、ガラテヤ2:20)。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」 ガラテヤ2:20
私たちは、教会というコミュニティーの中で、兄弟姉妹と共同で、キリストによって生きるということを学び、兄弟姉妹と共同で、神に仕えることを学ぶのです。ひとりぼっちの孤立したクリスチャンとしてではありません。こんにち、このことを体験するクリスチャンが劇的に増加しつつあるのです。
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