「聖書協会共同訳」の不自然な翻訳
聖書協会共同訳の批評の2回目です。
今回は、翻訳者の含意が強く反映されていると思われる不自然な箇所を紹介します。
聖書協会共同訳・(新)P160
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
新共同訳
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
新改訳
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
●問題点
聖書協会共同訳の訳文をご覧いただきますと、「命」が被造物の一つとして描かれていることがわかります。
「言の内に成った」という表現は、「キリストの内に造られた」という意味です。
ですから「言の内に成ったものは、命であった」を言い換えると、こうなります。
キリストの内に造られたものは、命であった。
ところが、この部分を原文で見ると、「造られた」に相当するギリシャ語は使われていません。
ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν
~の中に 彼 命が あった(エイミの未完了過去)
エイミは英語のbe動詞に近い意味を持ちます。
ですから、この部分は新改訳のように「この方(の内)に命があった」と訳すべきです。
(長文なので書き写しませんが、そういう意味は書かれていません)
このことは、同じ4節の後半からはっきりとわかります。
ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων
この命は だった 光 人の
前半の抜粋と後半の抜粋を比較していただけば一目瞭然ですが、どちらも同じἦνが使われており、どちらも未完了過去形です。
にもかかわらず聖書協会共同訳は、前半のエーンだけを「成った」と訳し、後半のエーンは「であった」と訳しています。
つまり、4節前半を「成った」と訳すのは、かなり不自然だということです。
●おわりに
最後に、同じヨハネの別の箇所を参照し、4節前半の「成った」(造られた)という概念の真偽を探ります。
言い換えるなら、神がキリストのうちで命を創造したという事実があったか否かを確かめるわけです。
父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
この箇所からわかるのは、父なる神が子なる神に「命」を持たせたということです。
子なる神の中で「命」を造ったわけではありません。
それゆえ、命が「言の内に成った」という考え方は、聖書的にサポートされません。
翻訳者の思いが如術に反映していると言わざるを得ず、明らかに不自然だと思います。
おわり