ダビデの日記

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ヨハネ1:3~4の句読点問題


*この記事は、「聖書協会共同訳」の不自然な翻訳の続編です。
 
 ヨハネ134について調べますと、ギリシャ語原文における句読点の位置について議論されていることがわかります。
 
 この箇所のテクストをどこで区切って訳すべきかという点で、学者らの意見が分かれているわけです。
 
 この記事では、聖書協会共同訳におけるテクストの区切り方、およびその訳し方の問題点について考察します。
 
 
句読点問題
 
ヨハネによる福音書1章3節~4節の原文
3πάντα δι᾽ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν. ὃ γέγονεν 4 ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων
                              引用元:UBS GNT5
 
 
 議論となっているのは、「ὃ γέγονεν/ホ・ゲゴネン」の前にある句読点の位置です。
 
 最古の写本には、句読点がついていませんでした。
 
 それゆえ歴史的に、ὃ γέγονενの前で区切る訳し方と、後ろで区切る訳し方の2種類が存在します。
 
 聖書協会共同訳の場合、ὃ γέγονενの前で3節を区切り、ὃ γέγονενというフレーズを4節に組み込む形で翻訳しています。
 
 さて、「ὃ γέγονεν/ホ・ゲゴネン」の意味は、「成ったもの/造られたもの」です。
 
 ですから、このフレーズを4節に組み込んで訳した場合、聖書協会共同訳のようになります。

聖書協会共同訳
3 πάντα δι᾽ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν.  
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。

ὃ γέγονεν 4 ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων
言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
 
 
 一方、従来の新共同訳や新改訳は、ὃ γέγονενの後ろで3節を区切り、原文の4節がそのまま訳文の4節になるように訳しました。
 
新共同訳
3 πάντα δι᾽ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν. ὃ γέγονεν 
3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

4 ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων
4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
 
新改訳
3 πάντα δι᾽ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν. ὃ γέγονεν 
3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

4 ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων
4この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 
              
 以上が句読点問題における相違です。
 
 それでは、どちらの訳し方が正しいのでしょうか?
                 
 以下に挙げる理由により、私は聖書協会共同訳の区切り方や訳し方は誤りであるだけでなく、大きな問題があると思います。
 
 
聖書協会共同訳は異端に道を開く
 
 私が聖書協会共同訳の訳し方に反対する主な理由は、この訳し方を採用した場合、異端に道を開くということです。
 
 皆さんもご存知かと思いますが、4世紀にアリウス主義という異端がありました。
 
 アリウス主義は、ヨハネ134を聖書協会共同訳と同じ区切り方で訳し、次のような主張に行き着きました。
 
ルキアノスアリウスはロゴス(キリスト)を被造物の領域に帰した

                    出典:ウィキペディアアリウス主義
 
 
 このように、アリウス主義はキリストを被造物と見なしたのです。

 さて、ここで、聖書協会共同訳のヨハネ134の後半を解釈してみましょう。
 
言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
 
 上記の後半の「この命は人の光であった」の「この命」は何を指すでしょうか?
 
「人の光」とは、イエスさまのことです。
 
 このことは、8節からもわかります。 
 
ヨハネ18・新改訳
彼(バプテスマのヨハネ)は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
 
 
 このように、「光」とはイエスさまのことです。
 
 ですから、「この命」もイエスさまを指しています。
 
 ここで、この箇所の前半を見てみましょう。
 
言の内に成ったものは、命であった」とあります。
 
「成った」とは、「造られた」ということです。
 
 ですから、この訳文は、「命」が被造物であると主張しているのです。
 
 さて、ここで、「命」が何を指してかを思い出してください。
 
「命」とは、イエスさまのことです。
 
 つまり、この訳し方は、イエスさまが被造物だと示唆することになるのです。
 
 
実例:新世界訳
 
 聖書協会共同訳の訳し方が異端に道を開く実例として、エホバの証人が訳し、使用している「新世界訳」があります。

 

 新世界訳は、ヨハネ134を次のように訳しています。
 
英語版
3  All things came into existence through him,e and apart from him not even one thing came into existence.What has come into existence 4  by means of him was life, and the life was the light of men.(2013年改訂版)


3すべてのものは彼を通して存在するようになり、彼を離れて存在するようになったものは一つもない。彼によって存在するようになったもの4は命であり、命は人の光であった。

(注:日本語版は従来のものですが、英語改訂版と同様の訳し方をしています)



 上記の後半をよくご覧ください。
 
「命」が「存在するようになった」と訳されています。
 
 この「命」はイエスさまのことですから、新世界訳は、イエスさまが被造物だと主張しているのです。
 
 実際、エホバの証人は、イエスさまが被造物だと教えています。
 

ものみの塔は、イエス・キリストについて次のように教えています。

 "エスは、父なる神の最初の被造物である"(『論じる』五〇ページ)
 
              出典:聖書に基づいてエホバの証人と論ず(2)
 

 このように、エホバの証人もアリウス主義と同様に、イエス・キリストが被造物だと教えています。
 
 つまり、聖書協会共同訳の訳し方は、新世界訳と同様に異端に道を開くのです。
 
 
田川氏について
 
 田川健三さんも、聖書協会共同訳と同じ訳し方を主張しているようです。
 
 しかし田川さんには、聖書翻訳者として大きな問題があります。
 
 
田川はルドルフ・ブルトマン4福音書の矛盾を指摘したとして高く評価する。神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝であり、「神とは人間がでっちあげた」ものなので、「神を信じないクリスチャン」こそが真のクリスチャンであり、自分は「神を信じないクリスチャン」であるとする。聖書ギリシャ語は教会解釈に逃げているのであり、「私はある意味で聖書を破壊した」という。またエスという男はほとんど神について語っていないと考えている。聖書学の研究が進んだ19世紀後半から20世紀前半にはルターの伝統に従って正確なイエスという男の姿を追求していたが、後半からは保守反動が来ているとする。
                       
               出典:ウキペディア「田川健三」(強調はブログ主)
 
 
 要するに、田川健三さんは不信者です。
 
 しかも、ただの不信者ではなく、あからさまに反キリスト的な不信者です。
 
 コイネーギリシャ語で書かれた新約聖書を訳す上で、翻訳者が正統な神学に立脚していることは必須条件です。
 
 なぜならヨハネの箇所ように、異端と正統を分け隔てる訳し方の相違が生じるからです。
 
 
●まとめ
 
 聖書協会共同訳によるヨハネ134の訳し方は、異端に道を開く危険な訳し方です。
 
 実際に、エホバの証人の新世界訳と同じ訳し方です。
 
 このような訳し方は、福音主義としてあるまじき悪業であると私は考えます。
 
 おわり