ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

誰の信仰なのか? へブル11:11

  KiriShinの連載記事「聖書翻訳の最前線」新改訳12によると、新改訳聖書2017(最新版)のへブル1111は次のように翻訳されました。
  
 
新改訳・最新版
アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
 
 
 大半の聖書の訳し方とは異なり、アブラハムを主語としているわけです。
 
 このような訳し方をしたものには、塚本訳があります。
 
 
塚本訳
信仰によって、アブラハムはまた(その妻)サラと共に、子孫をつくる力を受けた、(すでに年齢が)盛りを過ぎていながら。彼は約束された方を誠実であると考えたのである。
 
 
 一方、以下は新改訳「第3版」です。
 
 
第3版
信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
 
 
 このように、第3版はサラを主語として訳しています。
 
 さて、最新版がアブラハムを主語にして訳された理由は以下のとおりです。
 
 
「子を宿す力を与えられました」と訳されていたギリシア語、デュナミン エイス カタボレーン スペルマトス エラベンは、男性が子をもうけることを意味する表現で、女性の妊娠には使用されないことが明らかになったのです(「新約聖書釈義辞典」)。
…こうして、この節も主語はアブラハムであるという理解に立って訳し直すことになりました。
                   出典:「聖書翻訳の最前線」新改訳12
 
 
検証
 
 それでは、新改訳・最新版の訳文を検証したいと思います。
 
 まずは、改訳の理由となったギリシャ語表現を織田昭著「新約聖書ギリシア語小辞典」で見てましょう。
 
デュナミン エイス カタボレーン スペルマトス エラベンは「(サラが)受胎の能力を受けた」と読めなくもないが、カタボレーンは「受胎する能力」ではなく、「受胎させる能力」であることを考えると、カイ アウテー サラ ステイラを挿入句(サラも不妊であってのに)と見て、「(アブラハムが)受胎させる能力を受けた」と読むのが正しいと思われる。
            (P292より、ギリシャ語のカタカナ表記はブログ主による)
  
 問題のギリシャ語表現の意味だけを検証の材料とした場合、新改訳・最新版や塚本訳の訳文が正しい可能性が高まります。
 
 ただし、KiriShinの説明では「女性の妊娠には使用されないことが明らかになったと言い切っていますが、
 
 織田昭先生は、「(サラが)受胎の能力を受けた」と読めなくもないが」として、従来の訳し方が可能である余地を残しています。
 
 念のため抜粋しますが、大半の聖書はサラを主語として訳しています。

 
聖書協会共同訳
信仰によって、不妊の女サラも、年老いていたのに子をもうける力を得ました。約束してくださった方が真実な方であると、信じたからです。
 
新共同訳
信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。
 
前田訳
信仰によってサラ自身も年が過ぎていたのに種を宿す力を受けました。約束なさった方がまことでありたもうと信じていたからです。
 
口語訳
信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。
 
岩波翻訳委員会訳
信仰によって、――〔妻の〕サラその人も不妊であったが ――、年齢上の時機を越えていたのに子孫を設ける力を受けた。約束した方は真実な方だと考えたからである。
 
文語訳
信仰に由りてサラも約束したまふ者の忠實なるを思ひし故に、年邁ぎたれど胤をやどす力を受けたり。
 
 
 さて、私ダビデは幾つかの理由でサラを主語とすべきだと考えていますので、その理由を述べたいと思います。
 
ギリシャ語表現
 
 まずは、KiriShinの記事では取り上げられていないギリシャ語表現にスポットを当て、サラを主語とすべき理由を述べたいと思います。
 
 11節を原文で見ますと、「ピステイ カイ アウテー サラ」(信仰によって、サラ自身は)と書かれています。
 
「サラ」の前に置かれている「アウテー」は、強意代名詞のアウトスという言葉です。
 
 強意代名詞には、次のような働きがあります。 
 
②強意代名詞として、他の何者でもなく特にそのものであることを強調する。(中略) 
 述語的位置(冠詞の組み合わせの外)では「~自身」「他ならぬ」という意味が強調される。
                           出典:MY聖書研究デスク
 
 
 次の動画でも430以降で、強調代名詞アウトスの説明がされています。
 
  
「アウトスは本来、強意代名詞として名詞や代名詞の意を強めるのに用いられます。
 
 例えば、アウトス ホ アンスロポス または ホ アンスロポス アウトス その人自身、アウトス エゴー 私自身、この私が…」
                               (引用終わり)
 
 上記の新共同訳や前田訳、岩波翻訳委員会訳では、「サラ自身」「サラその人」と訳されており、アウトスの強調代名詞の働きが訳出されています。
 
 つまりへブル書の著者は、11節において「サラ」を強調しているわけです。
 
 著者がサラを強調している以上、サラをこの文章の主体者(主語)と見なすべきだと思います。
 
 
②聖書全体
 
 次に、聖書全体から考えます。
 
信仰によって、アベル…(4節)
信仰によって、エノクは…(5節)
信仰によって、ノアは…(7節)
信仰によって、アブラハム…(8節)
信仰によって、彼は…(9節)
信仰によって、サラ?も…(11節)
信仰によって、イサクは…(20節)
信仰によって、ヤコブ…(21節)
信仰によって、ヨセフは…(22節)
信仰によって、モーセ…(23節)
信仰によって、遊女ラハブは…(31節)
 
 
 上記のリストを参考にして「信仰の殿堂」を考察してみましょう。
 
 仮に11節の主語をアブラハムとした場合、8節、9節、10節、11節とアブラハムの信仰が連続することなり、
 
「国々の母」「信仰の母」と呼ばれるサラの信仰が「信仰の殿堂」から抜け落ちることになってしまいます。
 
 その場合、11節でサラを強調したへブル書の著者の意図と反することになります。
 
 また、イザクやヤコブの信仰が取り上げられているのに、その母親であるサラの信仰を取り上げないとしたらアンバランスになるでしょう。
 
 さらには、遊女ラハブの信仰が取り上げられているにも関わらず、サラの信仰が取り上げられないとしたら、違和感を覚えざるを得ません。
 
 サラがイサクを身籠ったことは、唯一アブラハムの信仰のみによったのでしょうか?
 
 サラの信仰は不要だったのでしょうか?
 
 以下の箇所を見る限り、主は間違いなくサラの信仰を用いて約束の子イサクを生んでいることがわかります。
 
 
創世記17:16~21
16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」
19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。
21 しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」
 
創世記21:1~7
1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。
2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」
 
 
 まず第一に、創世記17章の「あなたの妻サラが、あなたに男の子を産む」というフレーズや「サラがあなたに産むイサク…」を見ると、
 
 イサクの誕生において、サラが主体になっていることがわかります。
 
 第二に、創世記21章を見ると、「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった」とあり、
 
 主がサラとの約束を重視して、それを確かに果たしたことが明確です(創世記18:14参照)。
 
 第三に、「サラが自分に産んだ」や「サラが子どもに乳を飲ませる」「私は、あの年寄りに子を産みました」などの表現を見ても、
 
 イサクの誕生においてサラの役割が主体的であったことが再確認できます。
 
 これらのことから、私はへブル11:11の主語はサラであると結論します。
 
 おわり