ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「教会」という言葉で連想されるもの

「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」出エジプト記25:8

●神はどこに住むのか
上記の御言葉は、神がモーセに命じて史上初めての幕屋を造らせたときに語った言葉である。注意していただきたいのは、神は聖所の中に住むとは言っておらず、「彼らの中に住む」と言っている点だ。

英語のchurchという言葉の原義は、「神の家」である。昔から人は、神が建物の中に住むと考える癖があるようだ。欧米ではこんにち、過去の聖書翻訳でこのchurchという言葉が使われたことは不適切であったと考え始められている。そしていくつかの箇所でchurchの代わりにassembly(集合、集会)という言葉が使われるようになったバージョン(NASB)がある。このほうが、ギリシャ語のエクレシアの意味をよりよく伝えられるからだ。

実際、主なる神が建物の中に住むと言われたことは一度もない(砧鯊綮錚隠掘В供法神は常にご自分が選んだ民の中に住んでこられた。このご性質は今も同じである(ヨハネ1:14)。

●現代人の教会観
先日、未信者と思われる男性から電話がかかってきて、「そちらは教会ですか。祈りたと思って。」と言ってこられた。未信者が祈りたいから教会に来たいということ自体は、実に素晴らしいことであるが、この一言の中に、現代人の教会観が感じられる。それは、教会=教会堂という観念である。クリスチャンたちにおいても、これは変わらない。

しかし聖書は違う。聖書が教会と言うときは、いつも神の民のことを指している。クリスチャンの集まりが教会であって、神の家なのだ。こんにち、世の中においても教会においても、信者が集まって神を礼拝したり、祈ったりする「建物」が教会だという観念が定着してしまっている。この考えは、以下の理由のゆえに修正されるべきである。

●会堂から出るべき理由
教会=建物という概念は、教会堂の中でなければ祈れない、あの建物の中でなければ神を礼拝できない、という潜在意識を特に未信者に与えてしまっている。前述の男性が私のところに電話してきたのは、その考えに基づいていたからだろう。

これは、その固定観念が、人を神からワンクッション遠ざけていることを表している。もし未信者たちがどこでも祈ることができ、礼拝できることを知っていれば、わざわざ電話してこないだろうし、わざわざ○○教会を見つけてそこまで足を運ぶ必要もない。その場で祈ることができ、そのほうがイエスに近づきやすくなるではないか。

第二に、信者が自分の家を集会のために開放するということは、神と教会への大きな献身になる。例え毎回ではないとしても、自分のアパートや家に幾人かの人を招き入れるということは、精神的エネルギーを要することだと思う。これはすべてのクリスチャンが神の祭司として神に仕え、人に仕えるよう教えている聖書の言葉の良き実践になる(汽撻謄蹌押В機ぃ后■粥В隠亜法

第三に、書かれてから約2000年の間、新約聖書は、クリスチャンの集会は信者の家で行なうものだと伝えている(使徒20:20、ローマ16:5、汽灰蝪隠供В隠后▲灰蹈汽ぃ粥В隠機▲團譽皀鵤押法F段未雰柀を建てて、そこに集まれとはまったく述べていない。一箇所も。

第四に、迫害下では、教会堂に集まる教会は、生き残ることができない。会堂が目立っていまい、迫害者にわかってしまうので、集会が成り立たなくなるのだ。これは何も過去のことを言っているのではない。こんにちでもキリスト信仰が迫害されている国はたくさんある。そしてそういう国で、妥協なしに純粋な信仰を保とうとする場合、地下に潜ることになる。イコール、家々で集まるということだ。聖書は伊達に家で集まるように教えていないということがこのことからも立証できる。

クリスチャンたちはそろそろ教会堂を出て、世の中(自分たちの家、職場の片隅、ファミレス、カラオケプレイスなど)で活動したほうがいいのではないだろうか。そのほうが、神の心に叶っているし(注)、未信者も神に近づきやすくなるし、信者の献身にもなるし、何よりも聖書通りなのだから。


注:マルコ16:15「全世界に出て行き・・・福音を宣べ伝えなさい。」
  ここで言われている「世界」とは世の中のことである。



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