ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

間違った環境の中にある危険

それでは、賜物を与えられているクリスチャンが、オーガニックな教会ではなく非聖書的な構造を土台とする人間的な組織の中で育つとどうなるのでしょうか。別の言い方をするなら、賜物を与えられているクリスチャンが、こんにちの組織的な教会しか知らない場合、どうなるのでしょうか。

その答えは、機能不全です。

もしも白熊を本来の生息環境から別の場所に移したらどうなるでしょう。生き残ったとしても(死んでしまうものもいるでしょう)、神が設計した通りには機能しなくなるはずです。白熊として生存する能力を失ってしまうのです。

生れたときから、ライオンを檻に入れて飼いならしたらどうなるでしょう。狩猟本能を失ってしまいます。神が彼らに与えた本来の機能のうちの一部分を失ってしまいます。

過去十年間、私は預言者使徒と自称する人たちに何人も出会いました。幾人かは本当に賜物に恵まれている人たちでした。他の幾人かは、本物のいやしの賜物を持っていました。また幾人かは、本物の知識の賜物を与えられていました。

しかし彼らのほとんどはキリストを深く知らず、キリストの十字架に従う経験をほとんどしていませんでした。

どうしてでしょう。それは組織が彼らを育てたからです。あるいは、他のクリスチャンたちから隔離されて育ったからです。(後者は、クリスチャンとしては異常な環境で育ったと言えます。)

言ってみるなら、そういう人たちは適切な環境で育たなかった人たちです。彼らは、自分が教会のメンバーの一員にすぎないというオーガニックな教会生活の中で成長しませんでした。自分たちの弱さや盲目さが他の人たちの前であらわにされてしまう環境、そういう新約聖書的な教会生活をして来なかったのです。それどころか、彼らのほとんどは、いくつかの組織的な教会に属し、独立した自分たちだけの奉仕団体を立ち上げて、自ら働きを始めました。ウォッチマン・ニーがかつて次のように述べたとおりです。「こんにちのキリスト教の働きにおける悲劇は、非常に多くの働き人たちが(自分で勝手に)出て行っただけで、(キリストによって)遣わされていないということだ。」

新約聖書には、そういった状況はまったく描かれていません。

私が懸念していることを質問に置き換えてみましょう。「新しい使徒たち」が開拓した教会はどこにあるのでしょうか。その教会では、牧師ではなくキリストがかしらとなっているでしょうか。メンバー同士が互いを深く知り合い、キリストの深みを体験しているでしょうか。全員の総意で物事が決められているでしょうか。特定の誰かが集会をコントロールしたり、指示を出したり、采配を振るったり、支配的になったりせず、すべての兄弟姉妹が奉仕しているでしょうか。

もっと残念なことに、私が知っている、新しい使徒ムーブメントに属して「使徒」というタイトルを名乗っている人たちはみな、異教的なルーツを持つ教会習慣を強力に擁護しています。そして過去18世紀の間、キリストがかしらとなることと、キリストのからだが機能を発揮することとを妨げ続けています。(前述の内容の理解に苦しむ方は、私の著作である「Pagan Christianity」を参照してください。)これらの理由のゆえに、私は「新しい使徒ムーブメント」を賞賛できないのです。


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