ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

パウロの第一回宣教旅行

(ある英語のキリスト教書籍の一部を翻訳してみました。1世紀の教会の姿や使徒たちの教会開拓の実情が、多少なりとも読者のみなさんに味わっていただければと思います。)


期間:2年間

時期:紀元47~49年

旅行距離:約1920km

開拓した教会:ピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラ、デルベ

開拓に使った月日:ピシデヤのアンテオケ=3~5ヶ月
            イコニオム=3~5ヶ月
            ルステラ=3~5ヶ月
            デルベ=3~5ヶ月


47年 春  キプロス訪問

キプロス島はセルキヤ地方に位置している。キプロスの主な輸出品は銅で、島の名前も銅に由来している。(バルナバが17年前にエルサレム教会を支援するために献金した際、銅を産出する土地を売った可能性がある。)キプロスは東西に約224キロの長さのある島で、住民の大半はギリシャ人だが、ユダヤ人の数も少なくなかった。


47年 夏  南ガラテヤへ

1世紀には、旅客船なるものはまだ存在していなかった。旅人は商業船か貨物船を見つけて、便乗させてもらわなければならなかった。大きな船ほど、安全に旅をすることができた。そして大きな船といえば、穀物船であった。渡航費はきわめて安価だった。天候上の理由から、冬季は緊急の場合を除いて船が出ることはなかった。11月11日から3月10日までは、海が荒れた。渡航に適している期間は、5月27日から9月14日まで。3月10日からから5月26日の間と9月14日から11月11日の間は、危険ではあったが渡航できないというわけではなかった。どの時期であれ、異教徒の水夫たちは、常に神々からのしるしが下るのを待ってから船出していた。船出に先立っていけにえが捧げられ、船出しても良いかどうかを占うために動物の内臓が使われていた。(使徒28:11によれば、パウロがローマに運ばれた際に乗船したアレキサンドリアの船の船首には、嵐からの守り神と信じられていた双子神、カストルとプロックスがついていた。)

ピシデヤのアンテオケは、標高約1100メートルにある。そのため、アンテオケに行くために、パウロバルナバはトーラス山脈を越えなければならなかった。このような旅は危険をきわめた。道々は盗賊が出没し、安全ではなかったからだ。またこの地域の河川は、容易に氾濫することが知られていて、多くの人々が溺れた。パウロが競灰螢鵐硲隠院В横兇如崟遒瞭顱盗賊の難」と書いたのは、間違いなくペルガからピシデヤへ向かう旅のことである。徒歩による旅では、通常一日に36キロ歩いたとされている。従ってペルガからピシデヤまでは、約10日間かかったはずである。

パウロバルナバが、道すがら安宿に宿泊することを余儀なくされたことは明白だ。裕福なローマ人たちはそういった安宿は敬遠していた。当時の安宿といえば、薄汚い寝室、混ぜ物をしたぶどう酒、法外な宿賃をふっかけてくる宿主、ばくち打ち、盗人、売春婦、虫の湧いたベッドで特徴づけられる。

旅による移動時間を考慮すると、パウロバルナバがガラテヤ地方の教会を開拓するのにかけた月日は、ひとつの教会につき、ほんの3~5ヶ月間となる。これは、パウロの宣教パターンとなっている。彼は誕生したばかりの教会に、短期間で堅い土台をすえた。そしてリーダーを誰一人立てることなくその教会を去り、長期間、再訪問することはなかった。

ガラテヤの兄弟姉妹たちのところにパウロが戻ってくるのは、2年後となる。南ガラテヤの信者たちの多くは異教徒であった異邦人たちで、中には「神を恐れかしこむ人々」や、何人かのユダヤ人もいた。(「神を恐れかしこむ人々」とは、イスラエルの神についての話を聞くために、ユダヤ教シナゴーグに出席していた異邦人たちのこと。)異邦人信者たちは、迷信、偽りの神々、不品行などから救い出された人たちで、以前は汚れた生活を背景としていた。ユダヤ人は髪を整髪し、文化的で道徳的な人々であった。

保守的な統計によると、信者の50%以上が奴隷の身分にある人々であった。自由人と呼ばれ、かつて奴隷であった信者も多くいた。ローマ軍に所属する信者も数名はいたかもしれない。また商人をしている信者も数名いた可能性がある。

ギリシャ・ローマの世界では、奴隷は一般市民と外見上の違いや教育レベルの違いはなかった。彼らはたいてい、手工業の作業や家事に使われていた。人々が奴隷となる理由の大半は戦争に負けたことによったが、海賊によってさらわれてくる場合も多かった。借金のかたに奴隷に売られる場合もあった。奴隷の子供たちもまた、奴隷となった。自由人の子供でも、特に女児の場合は奴隷として売られてしまうことがあった。「自由人」とは、以前奴隷であった人々で、市民としての正式な権利は持っていなかった。彼らのほとんどは、奴隷であったときよりも生活の経済的基盤が弱くなり、きわめて貧しい生活をしていた。

南ガラテヤの信じたばかりのクリスチャンたちには、聖書がなかった。新約聖書はまだ完成していなかった。4つの教会において、一人のユダヤ人信徒が、旧約聖書中の何種類かの書簡を1、2巻持っているかどうか、というところであったあろう。南ガラテヤの4教会に、旧約聖書の全巻を持っている者がいたとは考えにくい。仮に信者全員が聖書を持っていたと仮定しても、ほとんど何の役にも立たなかった。というのは、識字できる人はローマ帝国の国民の5%から10%しかいなかったからだ。書簡執筆者、速記者、詩人、法学者は、多目に見ても人口の4%だけであった。その彼らも、40歳までには老眼になっていた。口述筆記者が必要とされた所以は、そこにある(ローマ16:22)。

ガラテヤ人の貧困には、きびしいものがあった。教会内の自由人の多くは、人間として生き抜けるかどうかの境界線上にいた。彼らは日々、市場で仕事を探した。仕事にありついた場合は、日払い賃金(1ローマデナリ)を受け取った。これは彼らの家族をなんとか食べさせてやれる金額であった。1世紀の貧困層の一般的な食べ物は、野菜、パン、ぶどう酒、オーリブの実、魚、くだものである。肉はごくまれに、特別な機会にのみ食された。裕福な人たちは、頻繁に肉を食べていた。

ローマの植民地では、町並みはローマと同じように設計された。わかりやすく言うと、町々は不衛生で悪臭を放ち、治安も悪かった。こういった状況のため、民衆の多くは病気と栄養不良をきたしていた。平均寿命は男性が45歳、女性は38歳であった。(ローマ帝国で生れた人の半数が、5歳未満で死亡していた。)女性はたいてい10代前半で子供を産み、出産年齢を過ぎるまでには子供たちを育て上げていた。避妊はほとんど行なわれていなかった。出生児の25%が、1歳未満で死んでいた。ユダヤ人の子供の10人中3人が、18歳未満で死んでいた。異邦人の場合は、子供の死亡率はさらに高かった。女児の場合、両親があまりも貧しくその子を育てられないと、しばしば人里離れた場所に捨てられた。

1世紀のガラテヤは、大半の人々にとって喜びも愛もない、生活するにはおぞましい場所だった。シリヤのアンテオケから遣わされた二人の使徒が、キリストの教会を設立するために入り込んでいったのは、そういう世界だった。生れたばかりのガラテヤ諸教会が、異邦人による不品行と偶像崇拝に取り囲まれていたことを忘れてはならない。また、クリスチャンたちの信仰を忌み嫌うユダヤ人が同じ街の中にいたことも。

こういった問題が山積する中で、パウロバルナバは、たった3~5ヶ月しか教会にとどまらなかった。使徒たちは信者たちにキリストを語り、彼らを残して去った。使徒たちの短い再訪問のあと、誕生したばかりのガラテヤ諸教会は、2年間近く使徒たちに会うことはなかった。けれどもパウロバルナバがガラテヤの諸教会に語った福音は、外部からいかなる援助も受けることなく、彼らを生き延びさせるに足る豊かさと質の高さを有していたのである。



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