ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

すべてのものを見分ける

「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。」       汽茱魯唯粥В


今日は、霊的見分けについて簡単に書こうと思います。



●事例1 トロント・ブレッシングの真似→教会分裂

しばらく前に、トロント・ブレッシングという霊的ムーブメントが流行りました。いくつかの特徴を述べると、聖なる笑い、ジェスチャー付きのライオンの鳴きまね、奇声を発する、転げまわるなどです。

アメリカのフェニックスという街にある約2000人が集まっていた教会の牧師(この方は使徒と言われていました)がトロント・ブレッシングを真似た結果、教会が内部分裂しました。

その教会が分裂を起こす前のことですが、その牧師さんが日本に来てくださり、当時私が属していたグループのいくつかの教会で奉仕をしてくださいました。そのとき私は、その牧師さんの通訳をさせていただきました。彼は、E・Dさんといいます。

E・D牧師は集会の中で、会衆にライオンの鳴きまねをさせました。キリストはユダの獅子と言われているから、ライオンの鳴きまねをするとクリスチャンは霊的に強くなるというのです。

しかし聖書の中で、ライオンの鳴きまねをしている人物は一人もいません。また、そうすると霊的に強められるという教えもありません。

あのようなことを自教会で何度も繰り返されたら、違うとわかっているクリスチャンたちはそのような行ないがいやになり、そういう集会には出たくなくなります。ですから、分裂は当然の結果といえるでしょう。



●混乱
見分けをする必要がある理由は、第一に聖書がそう勧めているからですが、見分けを怠るときに、霊的に混乱してしまうという理由があります。そして時には、ひどく悪霊につけいれられることになったり、他のクリスチャンに迷惑を掛けることになったりする可能性があります。



●事例2  偽使徒となってしまった賛美伝道者

R・Fさんといって、レバノンアメリカ人の賛美伝道者がいました。彼にはCさんといって、キーボードを弾くチャーミングなカナダ人の奥さんがおり、二人で色々なところを訪れて、賛美伝道の奉仕をしていました。あるとき彼らが、当時私が属していた教会に来て奉仕してくれることになりました。

Rさんたちを通して、主は霊の戦いや預言の働きについて私たちに教えてくださり、私たちの教会は多くの恵みを受けました。彼らは、ほんとうに主に大きく用いられました。

ところが、数年後、Rさんは奇怪な行動を取り始めました。世界中の教会や知り合いのクリスチャンたちに手紙(当時はエアメール)を出し始めたのです。内容は、世界中の教会とクリスチャンはみな霊的に眠っている、目を覚ませ、という他者を裁く内容で、上から下にものを言っているという感じでした。

その手紙だけでも十分変だとわかったのですが、フィリピンの知人から、Rさんの奇怪な行動の情報が伝えられてきました。(Rさんは、マニラに拠点を置いていました。)

知人によると、Rさんは自分が使徒だと言っているというのです。そして、奥さんのCさんが使徒である自分に逆らったので、家から追い出したというのでした。

しばらく後、私たちは宣教でフィリピンに行く機会があったので、マニラでRさんに会い、様子を確かめてみることにしました。

マニラ空港を出たところでRさんと久々の再会。私は、Rさんとは個人的に仲良しだったので、人間的にはとても嬉しい再会でした。ところが・・・

彼は霊的に異様な感覚を放っていました。感覚の話なので文章において客観的に伝えることが困難ですが、Rさんは笑顔とやさしい口調で私たちに話しかけてくれているにもかかわらず、届いてくる霊的感覚はまったく聖霊と違ったもので、「もうこれ以上一緒にいたくない」という嫌な感じがしました。これは私一人ではなく、一緒に行った日本人チームの兄弟姉妹たちみなが同様に感じたことです。

使徒として働きをしているということも、彼自身の口から聞きました。(使徒そのものを否定するのではありません。神の召しについては、本物であれば、その人の奉仕の実によって周囲の教会がそれを認識するものであって、自称するものではないということです。)



●霊的土台となる教会がなかった

Rさんは聖書学校を出たあと、奉仕で教会から教会へと渡り歩きました。世界を回りました。しかし彼の弱点は、いわゆる「母教会」と呼べるものがなかったことです。そこで育てられ、そこで訓練を受け、そこから遣わされる教会、自分の霊的な土台となる教会がなかったのでした。

聖書によれば、クリスチャンはキリストのからだの一器官です。教会こそクリスチャンの居場所です。教会につながっているからこそ霊的栄養が受けられるし、自分に与えられた役割を果たせます(エペソ1:22~23、同2:19~22、汽灰螢鵐硲隠仮蓮法

しかし目や鼻が体から離れて、どこかに転がっていたらどうなるでしょうか。手や足が、胴体から離れていたら、何かの役に立つでしょうか。

ある人がこう言っていました。教会から離れたクリスチャンは、糸の切れた凧のようなものだと。風が吹いたら、どこへ流されていくかわかりません。Rさんは、まさに糸の切れた凧状態でした。彼は流れ着いた教会で教えの奉仕をし、使徒と自称してはいたものの、周囲の健全な教会からは受け入れられていませんでした。



●解説

「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。」      汽茱魯唯粥В


「すべてのことを見分け、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」 汽謄汽蹈縫隠機В横


汽茱魯佑痢屬燭瓩后廚鉢汽謄汽蹈縫韻痢峺分ける」は、どちらも同じギリシャ語の単語ドキマゾー(試す、試し続ける)が使われています。


また、ドキマゾーが使われている別の箇所として、ローマ12:2があります。 


「この世と調子を合わせてはいけません。・・・神のみこころは何か、・・・何がよいことで、神に受け入れられ、・・・をわきまえ知るために・・・」


この聖句に出てくる「わきまえ知る」が、ドキマゾーです。


このように聖書は、私たちが見聞きする霊的な示し、体験、教え、思い、感情などをうのみにせず、見分けるよう教えています。そしてただ見分けるだけでなく、神からのものだけを受け入れるよう勧めています。



●霊的な事柄の分類

霊的に示される言葉や幻、イメージ、いろいろな体験などは、次の4つのうちのどれかからやって来ます。

○神

○神以外の霊

○自分

○他の人間


見分けとは、自分が見聞きする霊的なものが、これらのうちのどれに由来しているかを確認することです。


●見分けの基準=聖書

見分けにはいくつかの基準や方法がありますが、一番安定していて確かな基準は聖書です。


「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し」  ヘブル4:12


聖書は聖霊によって書かれた神の言葉です。歴史を通してキリストの教会が神の言葉として認めてきたもので、私たちの正典です。ですから、どんなに素晴らしく思える示しや霊的体験であっても、聖書の内容と食い違うものは聖霊から来ていませんし、受け入れてはいけません。霊的体験よりも、神の言葉に権威を置くべきです。


聖書は、霊的なことをすべて見分けるよう教えています。霊的示しや体験を受け入れる前に、まず見分けのフィルターを通しましょう。



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