ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

聖書が語る万人祭司

ある英語の書籍の、あるページだけ訳してみました。聖書の箇所は、是非ご自身でお手元の聖書を開いてお読みください。(なお上記のタイトルは私が勝手に考えたもので、書籍のタイトルとは異なります。)


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神は私たち教会を、新しい祭司として召してくださいました。全世界の前で神に栄光を帰す者とするために、聖別してくださったのです。聖なる国民とは神がどのようなお方であるかをこの世に示し、神が人々をどれほど愛しておられるかを示す民のことです。この祭司の働きは、もともとイスラエルの民のために計画されたものですが、今やイエス・キリストにある新しい契約が立てられたことによって、さらに栄光あふれるものとなりました。言い換えると、教会は神に仕える祭司の国民として召し出されたのです。クリスチャンはみな祭司であり、仕えることに召されているのです。


黙示録1:5b~6

黙示録5:9~10


この箇所が言わんとすることは明確です。御言葉は、われわれ教会は聖なる国民だと言っているのです。私たちこそ王家の祭司です。これは紛れもない事実なのです。私たちはみな、神の祭司なのです。これこそ神が初代教会の信者たちに求めたことでした。新約聖書に書かれている教会は、この祭司の働きで満ちています。


●祭司の共同体

ペテロが王家の祭司と言う時に、それは単なに、祭司の集団のことではありません。「祭司」という言葉は、祭司的な「兄弟関係」を意味しています。具体的に言うと、聖書が語っているのは、祭司の社会または祭司の共同体のことなのです。こんにちの教会には、この姿はほとんど見ることができません。教会というと、神について勉強する場所のように思われています。まるで学校の教室みたいなイメージです。教会とは私たちが通う場所であって、まるで建物か集会のように思われています。祭司の共同体ではありません。教会とは、「一週間に一度か二度、出席するもの」というのが私たちのイメージではないでしょうか。

しかし新約聖書に書かれている「祭司」は、そうではありません。そこに書かれているのは、生活を共にする社会または共同体です。聖書に書かれているのは、互いに仕え合う「兄弟姉妹の関係」、イエスが語っている愛を実践する関係なのです。主は人生の最後の3、4年間を、そのような人々の一団とすごされました。この小さな共同体は、主イエスが行くところ、どこにでも付いて行きました。彼らは共に歩き、共に食事をしました。そしていつも主イエスが彼らの行動の中心におられました。主イエスは道を歩いているときも、湖の上でボートに乗っているときも、彼らに教訓を与えました。彼らはそのようにして、共に主を体験したのです。ペンテコステの日には、十二弟子たちが、自分たちの体験したイエスを他の人々に分かち合いました。それによって祭司は3000人に増え、今度は彼らが祭司の共同体として生活し始めました。信者たちは生活を共にし、家々でパンを裂きました。それは家族であり、兄弟姉妹であり、同じ心と思いを持った共同体でした。

新約聖書に書かれている教会で使われている用語を思い出してみてください。


●教会は家族として描かれている

教会のメンバーは、兄弟とか姉妹と呼ばれています。神は神が彼らの父親であり、彼らはみな神一家の子供たちです。パウロの書簡でも、信者たちは兄弟姉妹と呼ばれています。もちろん、こんにちでは私たちの実生活における家族関係が崩壊していますから、私たちの多くにとって、聖書的な家族の概念は程遠いものとなってしまっているでしょう。しかし家族とは本来、一緒に暮らし、一緒に仕事をし、互いを思い遣るものなのです。



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