ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

父なる神のイメージ

●父なる神のイメージ

金曜日の集会では、分かち合いの中で、話のテーマが父なる神のイメージに進んでいった。その中で、私たち日本人クリスチャンは、父なる神の愛の大きさが余りよくわかっていないのではないかという話になった。

その証拠は、一般のプロテスタント教会で教えられる神のイメージにある。

未信者に伝道するときは、「あなたはありのままで愛されている」と言うのだが、一度救われて教会に定着するようになると、「もっと祈らなければいけない」「朝早く起きてディボーションしなければならない」「伝道しなければならない」「あれもこれもしなければ、神に喜ばれない」というふうに、あたかも神の愛が条件付であるかのように教えられることになる。

いつしかひとり一人のクリスチャンの神観は、恐ろしい神、怒れる神、努力をしないと報いてくれない神・・・へと変質してしまう。いつまでたっても、神がいつも怒った顔をして自分を見ているようなイメージから抜けられない。明らかに聖書が教える実際の神よりも、厳しい、あるいは旧約的な神観ができあがってゆく。


聖霊の働き

しかし昨晩、聖霊は、放蕩息子の箇所(ルカ15章参照)から、「父なる神は息子が財産を持って去って行っても何も言わなかった」「罪を犯している只中でも、神の愛は不動で変わらなかった」「罪を犯して帰ってきたときも、一言も叱らなかった」「それどころか、服を着せてくれて、指輪をはめさせてくれて、靴も履かせてくれて、祝宴をして喜んでくれた」ということを語り、父なる神の愛の大きさ、広さ、深さを垣間見せてくださった。私を含めて、複数の兄弟姉妹がその愛に触れられて涙していた。


●構造との関連性

以下に述べることは私の個人的見解であるが、私は、一般の教会において神観が厳しい方向にズレるのは、教会の構造と関係があるように思う。

真のハウスチャーチであるなら、教会のかしらはイエス・キリストだけで、一般の教会で言うところの牧師はいない。兄弟姉妹の人間関係は平等で、上下関係はない。一般の教会の牧師などのように、権威を振りかざしたり、他者をコントロールする存在はいない。特定の人だけが説教をするということもないので、偏った教えが語られる可能性が極めて低い。

結果、HCのメンバーたちは人からのコントロールや束縛を受けず、ただ神からの直接的な建て上げの働きを受けてゆく。なので、ひとり一人の信仰が解放されて自由にされていく。神に対して自由で率直な対話ができるようになってゆく。自分の中でこれまで押し殺していた感情や疑問などを神の前に出せるように変えられてゆく。

今、私たちのHCに集まっている兄弟姉妹のほとんどは一般の教会で育ったクリスチャンなので、神はまず、ひとり一人の信仰をいやしている(歪んだ神観を矯正している)ようである。これは、神との関係が健全にされるということだから、極めて重要で大きな意味のあることである。


●土曜日

土曜日の午後は、家内と共に、ある姉妹と交わりの時を持った。この姉妹は、私が以前教会をやっていたときのメンバーだ。彼女が私の教会に来てくれたのは、ネットで調べて連絡してくれたことによる。

私がその教会を去って以来、約2年間関わりが途絶えていたが、今回も彼女が私のブログをたまたま見つけてくれて、コメントをしてくれたことがきっかけとなり、再会する運びとなった。(私はこのパターンが繰り返されたことの中に、神の導きを感じている。)

私たちはファミレスで聖書を開き、HCを含めていろいろなことを話した。多分、その姉妹にはわからない部分も多々あったことと思う。しかし全体的なイメージを受け取ってもらえているならば、今回の交わりの意義は十分あったと思う。

最近私は、自分が在住しているG市には、もう住んでいる必要はないと思っていた。神がそこからは誰一人関わるべき人物を興さなかったからだ。そこで昨年末、G市からN市に移転しよう思い立ち、そのことを祈り始めた矢先に神はこの姉妹との関わりを復活させてくださった。もしかしたら、G市にもハウスチャーチができるかもしれない。



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