ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

霊的未熟さを助長する教え

私は、電車の線路的な御心観を持ちながら、クリスチャンライフの大半を歩んできました。私の考えでは、線路的御心観は、霊的な未熟さをすさまじく助長します。私は、この御心観を持った多くのクリスチャンたちが、とても愚かで奇妙な決断を下すのを見てきました。例えばこんなふうです。

「フランク兄弟。私は外で日の光を浴びながら、主にある決断について深く考えていました。するとどうでしょう。小枝が動くのが見えたのです。そのとき私は、それが、○○をせよとの神からのしるしであることに気付きました。」

あなたの人生に神が特殊な御心を持っているので、それを捉えなければならないと信じるが故に、多くのクリスチャンはギデオンの祈りをする羽目になりました。かくなる私も、同じ事をした経験があります。間もなく私は、そのような考えは、新約的ではないことに気付きました。実際、ギデオンの祈りは、旧約聖書にたった一度しか登場しません。そしてそのやり方と言えば、こんにちの羊の毛の使い方とはひどく掛け離れています。(ギデオンの祈りについてご存知ない方は、士師記6章をお読みください。)

くじ引き(これは、ペンテコステ聖霊降臨以降、一度も登場しません)も「バイブル・ルーレット」(聖書のページをパラパラ開きながら、あるところで止めて、そのページの上に自分の指を無作為に置き、指先が示している聖句によって、自分の人生に関する神の御心を知ろうとすること)も、神の御心を確認する方法としては、極めて未熟で馬鹿げた方法です。

端的に言うと、内なるイメージを解釈したり、外的なしるしを読み解こうと試みることによって、クリスチャンたちは最も愚かな過ちを犯しているのです。恥ずかしいことですが私自身、そういうことをやってきました。



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