ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

線路的御心観は間違った罪責感、恐れ、疑い、混乱を生み出す

●線路的御心観は偽りの罪責感、恐れ、疑い、混乱を生み出す

線路的御心観は、神の御心が明確でない場合、人々に偽りの罪責感、恐れ、疑い、混乱をもたらします。私は、神の御心に従い損ねたと思い込み、慢性的な罪責感にさいなまれている数多くのクリスチャンに出会ってきました。

ジャックという青年は、どの大学に進学するのが御心なのかを捉えられなかったため、罪責感に支配されてしまいました。線路的御心観は、「自分があまり霊的でないから、神の導きがはっきりわからないのだ」という偽りの罪責感を生み出します。その罪責感は、自分は神の御心に従い損ねてしまったという恐れに発展します。そして外的なしるしや内的な語り掛けを受けたと感じながらも、それらが神から来ていなかったことに気付くと混乱が生じます。またこの教えは、神の愛と約束に対する疑いも生み出します。神が自分を見放し、何もしてくれなくなったと思わせるのです。

残念に思うのことは、中にはこの問題のゆえに信仰につまずいてしまったクリスチャンもいるということです。彼らは自分たちの救いにまで疑問を持ち、苦しんでいました。彼らは、こう結論付けました。もし自分たちが救われているのなら、神は自分が置かれていたすべての状況において、どうすべきであったかを超自然的な方法でおしえてくださったはずだと。

●罪とは
さて、みなさんにわかっていただきたいことがあります。みなさんを偽りの罪責感から解放したいので、罪に関して少しお話しようと思います。

新約聖書によると、罪とは律法に逆らうことです(汽茱魯唯魁В粥法もしあなたが律法を破ったなら、あなたは罪を犯したのです。律法は何と言っているでしょう。例えば、「盗んではならない」とあります。ですから、もし私があなたのお昼ご飯を盗んだなら、私は罪を犯したのです。

主イエスは、律法全体が(全部で613の規律から成っていますが)一つの教えにかかっていると言いました(マタイ7:12、22:36~40)。パウロヤコブも主と同じことを述べています(ローマ13:8~10、ヤコブ2:8)。ヨハネもまた同じ内容を書いています(汽茱魯唯院腺犠蓮法

主イエスは、愛は律法全体をまっとうすると言いました。愛は律法のすべてを成就するのです。では、愛とは何でしょう。愛とは神の性質そのものです。私たちの神は、その本質において愛です。愛は、自己を犠牲にして他者に益をもたらします。愛の最も偉大な見本は、イエスの十字架です。

愛は、神のすべての要求をまっとうするのです。

さて、罪とは律法に対する違反です。どうして罪=違反なのでしょう。それは、愛とは律法を成就するものだからです。つまり、もし私があなたを愛しているなら、私はあなたから盗みません。もし私があなたを愛しているなら、私はあなたを殺しません。もし私があなたを愛しているなら、あなたの伴侶と姦淫を犯しません。もし私があなたを愛しているなら、あなたの持ち物をほしがったりしません。もし私があなたを愛しているなら、私はあなたに怒って、呪いの言葉を発したりはしません。もし私があなたを愛しているなら、あなたに嘘をつきません。あなたをだましませんし、あなたを見くびりませんし、あなたの名誉を傷つけませんし、あなたをののしったりしません。愛は律法をまっとうするのです。

例えばの話ですが、あなたを愛するチャンスが私に与えられたとしましょう。つまり、私があなたの必要を具体的に知っており、その必要を満たす力が自分にあるとします。にもかかわらず、あなたを助けることを拒んだとします。その場合、私は罪を犯したのです。これはヤコブの教えです(ヤコブ4:17)。

このことを背景にして聞いていただくなら、今から私が言うことは、みなさんの多くに解放をもたらすはずです。

もしあなたが、ある事柄に関して、神の御心を知らずに決断を下したとします。そしてその決断をする際、あなたは必ずしも愛に反して決断したわけではありませんでした。その場合、あなたは罪を犯しようがないのです!

もし何らかの決断においてあなたが愛をないがしろにしていないのであれば、あなたは罪を犯していないのです。言い換えるなら、決断を下す時のあなたの動機、あなたの意図、あなたの目的、あなたの行動、あなたの反応、あなたの態度が愛に反していなければ、あなたはその決断において、罪を犯してなどいないのです。

あなたは、愚かな決断をすることがあるかもしれません。ろくでもない決断をしてしまうこともあるでしょう。何年ものあいだ後悔するような決断を下すこともあるかもしれません。しかしもしあなたが愛に反して決断してさえいなければ、あなたは罪を犯さなかったのです。愛に逆らう場合のみ、罪を犯すのです。愛に反していたかどうかが、動機や素行、物事を遂行する方法においての分かれ目なのです。

私が伝えようとしたことを理解していただけたでしょうか。わかっていただけたなら、あなたの心はずっと軽くなったはずです。私は、「神からの啓示なしに何らかの決断をするなら罪を犯すことになる」という概念から、みなさんを自由にしたいのです。なぜなら、そのような教えは間違っているからです。



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