ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

線路的御心観は神とクリスチャンの関係にそぐわない

線路的御心観は、神と私たちの関係に調和しません。それについて少し説明させてください。

羊飼いはどのようにして羊を導くでしょうか。羊にとって害のない安全な場所へ導きます。もし危険な地域に導いた場合は、羊飼いは羊のそばから離れません。

羊を緑の牧場に導いたときは、羊飼いは羊に境界線を与えます。つえによって、羊が越えてはならない領域を示します。それは狼から守るためです。羊が境界から迷い出たときには、つえで連れ戻します。

けれども羊飼いは、牧場に生えている、これとそれとあの草を食べなければならないなどと指示したりはしません。それどころか羊飼いは、羊たちを広大な牧草地へと導きます。羊が安全な領域にいる限りはどのあたりで草を食べてもよいのです。天の羊飼いも同じです。

この原則は、この世の王様にも当てはまります。王は自分の王国に適した法律を民に課します。民衆が下す一つひとつの決断に関する細かい規則は制定しません。大まかな法律を制定するだけであって、日常生活に関する細かい指示まではしません。私たちの天の王も同じです。

同様に、かしこい父親も、幼い子供たちに事細かな指示を山のように出すことはありません。父親は子供のすることを、事実上、監督するだけです。けれども父親は、心のうちに目標を持っています。かしこい父親は子供を訓練して、子供が自分で決断できるようにするのです。

子供が成長して大人になるにつれ、親としての監督業は少なくなります。逆に子供にとっては、自由に決断できる範囲がどんどん広がってゆきます。そして責任も自分で負うようになります。

結果として、もし両親が上手に子育てをしたのであれば、子供たちは自分のたちに染み付いた親からの訓練に応じて決断を下すことができるようになります。子供たちは正しく賢い決断をするように訓練されるでしょう。そして自分たちが受けてきた訓練によって、堅実な判断ができるようになるのです。私たちの天の父も同様です。

これらの例えを理解していただけたでしょうか。

主はご自分の子供たちを、羊飼い、王、そして父として導きます。羊飼いである主は、私たちを緑の牧場に導き、危険から遠ざけます。しかしその牧場の内側では大いに自由を与えるのです。王である主は、ご自分の民を統率するために霊的な原則を与えます。しかしその霊的原則はとてもおおらかなもので、多くの選択の自由を許容するものなのです。父である主は、ご自分の子供たちがまだ若いうちは多くの教訓を与えます。けれども同時に、子供たちが大人になることを期待しています。そして大人になることの一面は、神の思いに調和した決断を下すことができるようになるということなのです。


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