ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

万人祭司と聖職者

数日前に届いた本(下記)にとても感銘を受けることが書かれていたので、翻訳・抜粋して掲載したいと思います。


「万人祭司」-The Priesthood of All Believers- by Milt Rodriguez P19~P23

第6章 聖職者の勃興

クリスチャンに対してもっとも破壊的である概念および制度は、一部の信者を「聖職者」、他の信者を「平信徒」として区別していることです。

この「聖職者と平信徒」の区別制度は、いくら考えても納得のいかないことです。そもそも有給の聖職者という概念は、聖書の中に見出すことができるでしょうか。この体制は、いったいどこから由来したのでしょう。教会の中に、「階級制度」なるものが存在するのだろうか。ある人を4年間神学校へ送り出し、資格と任命を授け、自分たちの教会用の「聖職者」として給料を支払うというのは、神の計画なのだろうか。もしプロのクリスチャンなるものが存在するのであれば、アマチュアのクリスチャンもあるのでしょうか。読者の方々も、この疑問に対する答えを知りたいはずです。


●聖職者制度の起源

まず初めに問うべきことは、聖職者制度の発祥です。新約聖書の中に、有給の聖職者制度について書かれているでしょうか。説教や教え、洗礼式、任命式、主の晩餐、結婚式、葬儀、カウンセリングなどの奉仕をするために聖職者を分別するという制度を、聖書は定めているでしょうか。1世紀の教会の中に、そのような人物を雇い、自分たちの教会の「聖職者」にするために給料を支払った教会があったでしょうか。答えは、断じて「ノー」です。こんにちの聖職者制度のようなものは、新約聖書の中に見出すことはできません。そのようなものは存在しないからです。新約聖書の中に見られるのは、互いに仕え合う信者の集合体のみです。そこに書かれているのは「万人祭司」であす。分別された一部の者たちではなく、信者の集まり全体が役割を果たしている姿です。神はそのような姿を御心としておられるのではないでしょうか。神の願いは、キリストがすべてのすべてになることです。もちろんそれは、すべての信者がキリストに仕えるときはじめて成り立つもの。神が求めているのは、キリストの満ち満ちた姿の実現です。その満ち満ちた姿は「みからだ」の中にあるのであって、選別された一部のエリート階級の中にあるのではありません。信者全員がキリストを宿しているのですから、信者全員がキリストを表現する必要があるのです。

残念ながら、「聖職者・平信徒」区別制度は、教会の中で総員が役割を果たすことの妨げとなってきました。総員奉仕は、今や「牧師」や賛美リーダーに取って代わられてしまっています。それ以外のいわゆる「平信徒」は、歌うことは別として、単なる聴衆に成り下がってしまっています。いくつかの「進歩的な」教会の礼拝では、会衆に(個人的に教えられたことや体験したことなどを)分かち合う時間を持つことが許可されています。何ということでしょう。キリストの教会が、分かち合うことに「許可」を必要としているとは。御霊によって生れた信者はだれでも、教会の集会において何らかの役割を果たす霊的権利があるはずなのに!

私は教会の中に、信者が奉仕したり、リーダーシップを発揮できる合法的な場がないと言っているのではありません。けれどもそのリーダーシップは、諸教会に広く普及していはいません。パウロは汽灰螢鵐硲隠仮呂如△澆らだのすべての器官には、働きと機能があるとい述べています。それらの働きや機能は、召しに応じてひとり一人異なっているのです。クリスチャンは全員が同じ働きに召されているわけではありません。私たちは傍観者に召されてはいないのです!

1世紀の終わりまでは、諸教会はイエス・キリストを(実際的に)教会のかしらとしつつ、(一部の指導者ではなく)兄弟姉妹たちによって運営されていました。長老たちがいる教会もありましたが、長老とは「羊飼い」であって、兄弟姉妹たちの間で模範を示すことによって群れを導いていました。こんにちのような聖職者や牧師は存在しなかったのです。それでは聖職者制度はどこから来たのでしょうか。


●単一奉仕者の起源

2世紀の初頭に、各地域教会に単一の統治者を置くべきだと主張する人物が現れました。彼の名はアンテオケのイグナチウスと言います。彼は、監督の「職」は長老の職とは異なっており、各教会は長老たちの「上」に一人の監督を置くべきだと主張したのです。また、監督は会衆と長老たちに対し、絶対的な権威を持っていると教えました。監督が聖餐式や洗礼式、結婚式、説教など、キリスト教の「典礼」を執り行うべきだとしました。2世紀中頃までには、この制度がほとんどの教会に取り入れられました。

3世紀にはカルタゴのシプリアンが登場し、万人祭司にさらなるダメージを与えました。シプリアンは回心する以前は、異教の演説家でした。ですから彼は、教会の中に多くの異教的な考えを持ち込んだのです。祭司、寺院、祭壇、捧げ物など、旧約の秩序をよみがえらせた責任は彼にあります。監督はそれ以降「祭司」と呼ばれるようになり、神の代理人として受け入れられるようになりました。そして祭司に言い逆らう者は、神ご自身に敵対する者と見なされたのです!もちろんこれによって、万人祭司制は一層深刻な打撃を受けることになりました。

けれども問題は、なぜ諸教会がこのようなことを許容したかということです。私の考えでは、こんにちのように聖職者と平信徒の区別が広がったのは、教会内部の、一つの根源的な問題によります。確かに聖職者制度の勃興には表面化した様々な理由があります。人々が権力と卓越のとりこになったこと、世俗的システムを導入したこと、旧約の祭司制度に関して誤った解釈をしたこと、新約の中にアロン的祭司制度を導入したことなどです。しかし、このあと検証していきますが、それらの内のいずれも、聖職者勃興の根源的な理由ではないのです。

教会の中に、間違った風習や教義が持ち込まれた理由はただ一つです。それは教会がキリストを中心に据えることを怠り、キリストを最高位から引き摺り下ろしたからに他なりません!それによって教会は弱まりました。キリストのいのちの光が消し去られてしまったからです。御霊は虐げられ、教会はこの世と肉と悪しき者の影響を受けました。その時点で神の目的は行き詰りました。なぜなら、もはや教会がキリストを自由に表現できなくなってしまったからです。


●新しい秩序における祭司

本書が執筆された目的は、読者の方々が万人祭司の回復の必要性を理解する手助けをすることです。こんにちの教会がキリストの満ち満ちた姿を現していない理由は多々ありますが、このあとその中心的な理由を見ていきます。次章では、聖書における祭司観の概略を捉えたいと思います。私たちは、旧約の祭司と新約の祭司の違いを理解する必要があるのです。