ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

必要なのは悟り

●必要なのは悟り

詩篇32:8~9は、私が語ろうとしているポイントを的確に示しています。詩篇の著者を通して主はこう語っています。

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。
わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
あなたがたは悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。
それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。(新改訳)

馬や騾馬には悟りがありません。彼らには分別がありません。判断ができないのです。悟りがないので、馬や騾馬はくつわや手綱で右や左に引かなければなりません。また、どこへ向かうかもそのつど指示しなければならないのです。主は言われました。「わたしはあなたがたに行くべき道を教えよう。あなたがたは悟りのない馬や騾馬のようであってはならない」と。

こんにちほど、主の民に悟りが必要な時代はありません。多くのクリスチャンが吸収してきた教えは、実質的に悟りを捨てさせる教えです。そしてその教えのゆえに、悟りに関して、馬や騾馬と同等のレベルに引き下げられています。主の民は、「こちらに行きなさい。あちらに行きなさい。こういう時にはこうするのです。こういう時にはそうしていはいけません。」と神が言ってくださり、あなたを右左に御してくださることを期待しています。

しかし主は民に言われます。「そのようになってはいけません」と。

この詩篇の箇所が意味しているところはこうです。神は私たちに悟りを与えることによって、教えてくださり、指示ししてくださり、導いてくださいます。それゆえ、悟りを求めなさい。そうすれば、悟りがあなたがたを行くべき道に案内します。

兄弟たち。物の考え方(悟り)においては子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方(悟り)においてはおとなになりなさい。(汽灰螢鵐硲隠粥В横亜

次の言葉をもって、この章を閉じたいと思います。
「神の御心は、列車の線路のようなものではありません。むしろ駐車場に似ているのです。」



ご面倒でなければ、ここをクリック。
    ↓↓↓↓↓
https://philosophy.blogmura.com/christian/ にほんブログ村 キリスト教